小児疾患関連リンク・ガイドライン

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夜尿症診療のガイドライン(日本夜尿症学会)
小児てんかんの包括的治療ガイドライン(日本てんかん学会)
乳幼児突然死症候群(SIDS)に関するガイドライン(厚生労働省)
小児CTガイドラインー被ばく低減のためにー(日本医学放射線学会、日本放射線技術学会、日本小児放射線学会)

<小児疾患関連記事>

 子どもの病気に関する記事を拾い読みしました。

■ 川崎病、6年連続1万人超(2012.03.13:共同通信)

罹患率は過去最高に 後遺症防止へ新治療法

 主に乳幼児がかかる原因不明の病気「川崎病」の2010年の国内患者数が約1万3千人に上り、05年から6年連続で1万人を超えた。 4歳以下の人口10万人当たりの罹患率(患者の発生率)は239・6人と全国調査開始以来最高を記録。専門家は患者の継続的な増加に懸念を示す。一方、治療面では最近、重症患者の心臓に起こる後遺症を大幅に減らす新たな方法が注目されている。

川崎病患者数の推移.jpg

 ▽冠動脈にこぶ

 川崎病は全身の血管に炎症が起きる病気で、1967年に小児科医の川崎富作さんが世界で初めて報告した。発熱や両目の充血、発疹、首のリンパ節の腫れ、イチゴのように真っ赤になる舌の腫れなどの症状が特徴で、重症化すると心臓の冠動脈にこぶ(冠動脈瘤)が後遺症として残り、心筋梗塞などを引き起こすことがある。
 原因は分かっていないが、ウイルスや細菌などの感染が引き金となり、患者側の何らかの要因と絡んで発症するとの見方が有力だ。
 全国調査は1970年以来、2年に1度実施。今回は09~10年の結果がまとまった。全国の小児科のある病院2033施設を対象とし、1445施設から回答を得た。
 10年の患者数は1万2755人。これは、全国規模で流行した1982年(1万5519人)、86年(1万2847人)に次ぐ3番目の多さで、0~4歳の罹患率は2008年の219・9人を抜いて最も高くなった。

 ▽ステロイド併用

 調査を担当した中村好一・自治医大教授(公衆衛生学)は「過去の大流行では短期間に患者が増えたが、90年代半ば以降は(じわじわと)継続的に増加している。原因は分からないが、日本全国で長期的な流行が続いている」と話す。

川崎病患者の心臓CT.jpg

 治療では、重症化による冠動脈瘤の発生をいかに防ぐかが最大の課題となる。これまで血液製剤の一種である「免疫グロブリン」を大量投与する治療が行われ、後遺症の発生頻度は以前に比べて低下してきた。しかし、患者の約20%には効果がなく、新たな治療法が求められていた
 そこで厚生労働省研究班(主任研究者=佐地勉・東邦大教授)は、08年9月から10年12月にかけて、全国74の小児科専門医療機関が参加する臨床研究を実施した。
 小林徹・群馬大助教(小児科)らが作成した重症化の危険性を判定するスコアを用い、受診患者の中からリスクの高い242人を抽出。これを免疫グロブリン投与だけを行うグループと、炎症を抑える作用を持つ「ステロイド」を併用するグループに分け、治療効果を比較した。

 ▽原因解明を

 すると、免疫グロブリンだけを投与した患者では23%に冠動脈瘤ができたのに対し、免疫グロブリンに加えてステロイドも投与した患者では3%にとどまった
 佐地教授は「冠動脈瘤の大半は、免疫グロブリンの投与に反応しない患者さんで発生している。効果を得られず投与を繰り返している間にこぶができてしまう」と指摘。「今回の研究でステロイド併用療法の有用性が確認できた。川崎病と診断したらできるだけ早くスコアで重症度を予測し、リスクの高い症例には最初から併用療法を行うことが望ましい」と話す。
 患者団体「川崎病の子供をもつ親の会 」の浅井満代表(63)は「治療の選択肢が増えることは大歓迎だ。ただ、親の立場から言えば、併用療法も完全ではない。後遺症の有無は人生の大きな分かれ目。一日も早く病気の原因を解明し、後遺症ゼロの治療法を確立してほしい」と話している。(共同通信 赤坂達也)

■ 患者を生きる 子どもの病気 読者編(2012年3月:朝日新聞)

1 「わがまま」と言われて

 「患者を生きる 子どもの病気」には100通を超える体験やご意見が届きました。「読者編」の初回は、病気や治療が人に理解されないつらさです。

●心ない言葉に涙

 小学5年生になった息子は、生後すぐに母乳を飲むのをいやがり、やがてオッパイを口にふくませるだけで泣き出すようになりました。生後半年を過ぎるあたりでアレルギー専門医を受診した結果、食物アレルギーと診断されました。私が食べた食事からアレルギー成分が母乳に出ており、息子は本能的に自分を守っていたんです。
 それから、私の食事も離乳食も、卵や小麦、エビ、カニ、ナッツ類、果物など、30種類近くを除去することになりました。主人や私の実家に行く時は、小麦を使っていないみそ、しょうゆを持参しました。
 幼稚園の給食はアレルギーに対応していなかったため、全てお弁当でした。大人からは「食べないのはわがままだ」と、子どもからは「卵食べて死ね」と心ない言葉をたくさん言われ、息子は今も時々「なぜ僕は食物アレルギーなんだろう」と涙を見せることがあります。
 血液検査でわからなくても、実際に口にすると反応が出る食材もあります。食物アレルギーは食べなければ症状が出ないので、理解されにくいのです。(千葉県 女性 42歳)

●悔しさをばねに

 わたしは3歳のころ、小児ぜんそくと言われたそうです。いつも背中が痛み、せきで疲れていて、不機嫌な子どもだったと思います。19歳のときには強い発作で入院し、人工呼吸で持ち直したこともあります。
 発作のたび、家族に「またか」という顔をされ、病院でも「かわいそうに」という扱いを受けました。人生の半分を、ぜんそくとの闘いで消耗したような気がします。
 どうしてもぜんそくを克服できない自分が悔しく、医療を学ぼうと京都市の看護学校に進学しました。正看護師として働き、結婚後に退職。3人の子どもにも恵まれました。
 健康に生きたい、ふつうに日々を過ごしたいという気持ちがばねになり、あきらめない気力を育ててくれたようにも思います。(京都市 女性 48歳)

2 いい医者に出会いたい

 あふれる情報の中から自分に合った治療にどうやってたどり着くか。多くの方が、医師探しの難しさを実感しています。

●正しい情報で前向きに

 私は小さな頃からぜんそくやアトピー性皮膚炎がありました。ステロイド薬は体によくないと思い、20代からはステロイド薬を使わないアレルギー科クリニックに通いました。
 小学4年生と1年生の息子にもさまざまなアレルギーがあり、長男は同じクリニックの非ステロイド軟膏(なんこう)などの治療で改善しました。しかし次男は、ここではよくなりませんでした。
 別の病院に行くと、小児アレルギーの専門医が「ステロイド軟膏でアトピーのかゆみを抑えて熟睡させたり、ステロイド吸入を続けてぜんそくを予防したりすることが次男には必要です」と、時間をかけて説明してくれました。
 そして「好きなだけ運動しても症状が出ないように薬でコントロールするのが、正しいぜんそく治療」との言葉で、親子で前向きに考えられるようになりました。
 ステロイド吸入を始めてから次男はほとんど「ゼーゼー」していません。正しい知識を持った医師に会ってなければ、今もさまざまな情報に惑わされていたかも知れません。(川崎市 都築昌世 43歳)

●診療科の連携がほしい

 生まれた時からぜんそくやアトピー性皮膚炎、鼻炎に悩まされてきました。ただ、呼吸困難で入院という重い症状の経験はありません。10代後半から20代までは体力がつき、ぜんそくをほとんど意識しませんでした。
 しかし30代になると体力が落ち、風邪をひくたびにぜんそくが出るようになりました。最近では、子どものころのような「ゼーゼー」「ヒューヒュー」という発作から、ただ息苦しく胸焼けがするような症状に変わりました。
 現在は大きな医療機関で標準治療を受けています。さまざまな新しい薬ができて、楽になった部分もあります。しかし、耳鼻咽喉(いんこう)科や呼吸器科、皮膚科、眼科などの各診療科の連携はなかなか良くなりません。どこに行けばよいのか、いまだに迷っています。(東京都新宿区 女性 47歳)

3 早く気づいてあげれば…

 子どもの病気に気づくのが遅れ、気にかける方もいます。

 ●ためらわずに病院へ

 2年前、5歳になったばかりの息子の熱がどんどん上がり、目が充血してきました。私は以前、看護師をしており、川崎病ではないかと疑いました。
 ただ、診断基準の一つである「5日以上続く高熱」が見られず、川崎病に特徴的な「イチゴ舌」という舌の腫れもありませんでした。
 土曜日だったこともあって病院に行くのをためらいました。夜間の小児相談電話にかけてみましたが、「まだ川崎病の疑いはない」と言われました。
 ところが、息子は標準的な治療が効かない「不応型」という珍しい川崎病だったのです。2日後の月曜日に総合病院へ入院となり、担当医からは「救急で土曜日に受診してほしかった」と言われました。
 懸命の治療で熱は下がりました。しかし後遺症は残りました。左右の冠動脈に瘤(りゅう)があり、薬を飲み続けています。
 今となっては仕方のないことですが、「土日でも遠慮せずに病院に駆け込んでいたら……」と後悔が残ります。医師によると「今は3日間の高熱でも診断がつく」といいます。そしてわが子がそうでしたが、必ずしもイチゴ舌にはならないということです。多くの方々に、このことを知ってもらいたいです。(京都府 女性 41歳)

 ●足りなかった想像力

 息子(26)は小学4年生でぜんそくの診断を受けました。小5までは、電車ですぐ横になり、宿題もさっさとやれないような子で、私たちは「なぜ、ダラダラするの」と叱りました。
 でもそれは、ぜんそくの「しんどさ」の表れだったのです。息子が理由を言わないので、気づいてあげられませんでした。
 3年後。生まれつき乱視の娘(27)が中学3年生のとき、コンタクトレンズを入れました。眼鏡なしの自分の顔を初めて鏡で見て、感動し「私ってこんな顔やったんや」と言いました。
 これを聞き、子どもにとって生まれつきの自分の特徴は「当たり前」過ぎて、外に伝えられないものだと悟りました。子どもの病気への対処には、親の想像力が大事だと反省しました。(京都市 浅田美也子 56歳)

4 職場が原因でぶり返す

 治まった症状が職場環境のせいでぶり返すこともあります。

●皮膚炎が全身に拡大

 42歳の息子は、小学4年生までアトピー性皮膚炎とぜんそくで入退院を繰り返しました。大学病院に通い、何とかぜんそくの治療はいらなくなりました。
 社会人になると、まじめで完璧主義な性格が災いしてか、仕事を頑張りすぎ、「ゼーゼー」という音とともにせきが始まりました。32歳のころに転職しましたが、次の会社でさらにひどいストレスにさらされました。
 私には多くを語りませんでしたが、直属の女性上司からいじめを受けたようです。全身にひどい皮膚炎が広がり、かゆくて仕事ができなくなって体重も激減。心身ともに大きな傷を受け、半年で退職しました。
 三つ目の職場では落ち着いて自分なりの仕事ができており、現在はだいぶ楽になったようです。アレルギーの発症はストレスとの関係が大きいと感じています。(埼玉県 女性 67歳)

●再発も、10年で完治した

 私は2歳半ごろにぜんそくを発症したそうです。当時はまだ「ぜんそくは甘え病」「大きくなれば自然に治る」と考える人が多かったようです。
 父は居酒屋を経営していました。私がたとえ夜の7~8時ごろに発作を起こしても、父の夕食が終わる午前1時ごろまで、病院に連れて行ってもらえませんでした。この時刻では、きちんとした治療は受けられません。
 夜9時ごろ「もう苦しい、我慢できない。病院へ連れていって」といっても、母は「怒鳴る元気があるなら、たいしたことないでしょ」と言い捨てたものです。
 中学2年生の時に都心から郊外に転居すると、症状は軽くなりました。その後就職した会社で、元気に働いていました。ところがある日、再び強いぜんそくの発作が起きました。受動喫煙の影響です。
 仕事をしながら治療を続けるのは大変で、本当に死ぬかと思いました。しかし、生まれて初めて自分で病院を選択し、最新の治療を受けることができたのです。職場での発症から10年近く。現在は薬を使うこともなく「完治」の状態になっています。(東京都 女性 36歳)

6 寄り添い見守る母の愛

 病気のわが子のために食事を工夫し、いつも寄り添う。「読者編」最終回は、お母さんの奮闘ぶりです。

●ちゃんとお礼をいいたかった

 私は幼稚園児だったころ、急性腎炎にかかりました。もともと運動が嫌いで、家でいつもごろごろしていました。すると、小食だったのに、顔がふくれてきていました。私の記憶では、気持ち悪いとか、だるいとか自覚症状は全くなかったのです。でも母がおかしいと思い、病院に連れて行ってくれました。
 軽症だったので、家で静養しました。大嫌いな幼稚園に行かなくてもいいし、父は毎日のように本をお土産に買ってきてくれる。夢のような毎日でした。食事も母が工夫してくれて、好き嫌いの多かった私の数少ない好物のエビフライを、毎日のように作ってくれました。
 母は結核を患った後に私を出産しました。私が20歳になるまで自分が生きられるかどうか不安に思い、必死で守ろうとしてくれたのだとわかります。
 母は昨年、突然に亡くなりました。急性腎炎を見つけ、自宅療養で治してくれたことに、ちゃんとしたお礼もいえずじまいでした。健康診断で既往症の欄に「急性腎炎」と記入するたびに、亡くなった父母を思い出すことになるのでしょう。(横浜市 仲野智子 52歳)

●息子が残した時間を生かす

 息子の知大(ともひろ)もデュシェンヌ型の筋ジストロフィーでした。車いすで生活する息子のために、進学した県立高校には、エレベーターや多目的トイレが設置されました。息子の卒業後も、車いすの生徒が入学しています。
 「パソコンの勉強がしたい」と千葉商科大に入学し、就職の意欲に燃えていました。しかし3年生だった2009年8月18日、心不全で亡くなりました。20歳でした。本来なら昨年3月が卒業式でしたが、東日本大震災の影響で中止になり、6月に「追悼 学業証書」を受け取りました。
 私も高校入学時から息子に付き添い、大学へも往復3時間運転して一緒に授業を受けていました。今は息子が残してくれた時間を無駄にしないよう、病院で週2回のボランティア活動をしています。(埼玉県 金田由紀恵 54歳)

■ 患者を生きる 小児腎臓病

(2012年2月:朝日新聞)

1 「一刻も早く緊急透析を」

 「なんか気持ち悪い。学校休んでいい?」
 2009年7月、期末テストが始まる日だった。東北地方の中学3年生だったマユさん(17)は、朝食の席で体調不良を訴えた。制服に着替えたものの、朝食はほとんど食べられず、吐き気もあった。
 学校を休んだことはめったにない。6月に引退するまでは、部員数ギリギリのバレーボール部を支える副部長として、毎日練習の日々だった。「ずっとがんばっていたから、疲れが出たかな」。母(47)はそう思い、学校に欠席の電話を入れた。
 翌日は登校したが、食欲は戻らず、学校でも吐くようになった。青白い顔を見かねて、母が近くの内科医院に連れて行った。吐き気止めの薬をもらい、念のため採血して帰宅した。
 翌日、血液検査の結果を見た内科医が自宅に電話をかけてきた。「近くの病院に紹介状を書きますから、そちらへ」。いったい何の病気なのか。よくわからないまま、マユさんと母は父の運転する車で病院に急いだ。精密検査を受けると、今度は「とにかく大学病院へ……」。
 そのまま1時間半の道のりを車で向かい、東北大病院(仙台市)に駆け込んだ。小児科の森本哲司(もりもと・てつじ)さん(46)が待っていた。紹介元の病院からは「急性腎不全で、すぐにも緊急透析が必要」と伝えられていた。顔がむくみ、つらそうながらも自分で歩いて来たマユさんを見て、「我慢強い子だな」と感じた。
 血液検査、胸部X線など検査を急ぎ、森本さんはマユさんと両親を面談室に招き入れた。「はっきりした病名はまだわかりませんが、よくこの体で運動していたと思います」
 マユさんの腎臓は、不要な老廃物や余分な電解質を血液から取り除いて尿を作ることができなくなっていた。血液中の老廃物の尿素窒素やクレアチニンは基準の10倍以上。心臓の動きを整える電解質のカリウムも異常に多く心停止しかねなかった。
 一刻も早い血液透析と血漿(けっしょう)交換が必要だった。
 「首の静脈からカテーテルを入れます。よろしいですか」
 森本さんの張りつめた口調に、母は動転した。その隣で、マユさんはじっとだるさに耐えていた。

2 「もう何もできない」

 中学3年生だった2009年夏、東北地方に住むマユさん(17)は急性腎不全になり、東北大病院に緊急入院した。
 検査の結果、白血球の一種、好中球が過剰に働き腎臓を攻撃するANCA(アンカ)関連腎炎と診断された。急に悪化するのが特徴でマユさんの病状も深刻だった。
 「元気になって帰ろうね」。母(47)はマユさんを励ました。入院初日に頸(けい)静脈から血液透析を開始。数日後には炎症を抑えるために、ステロイド薬を大量に点滴することになった。
 主治医の森本哲司さん(46)が副作用などを説明した。「アンパンマンのように顔がはれます。塩分も控える必要がある。髪が抜けたり、体毛が濃くなったりする場合もあります」。母はハラハラしながら隣に座る娘の表情をうかがった。「思春期の女の子なのに」。マユさんは、黙って説明を聞いていた。
 制限は塩分だけではなかった。カリウムもだめで、大好きな果物や牛乳を禁じられた。水分は1日に500ミリリットル程度まで。計量カップで量って飲んだ。朝食のスープを残せばその分、水を飲めると気づいたときは、2人で大発見したように喜んだ。
 3週間がんばったが、薬は効かなかった。緊急透析をやめ、日常生活を送るための維持透析に切り替える必要があった。
 森本さんは腎機能の回復がもう望めないことを伝え、おなかに管を埋め、自宅で透析できる腹膜透析に切り替えることを提案した。週に数回の通院が必要な血液透析よりも、よい選択肢だと考えた。
 涙ひとつこぼさなかったマユさんだったが、本当は、おなかから管が30センチも飛び出した自分の姿が許せなかった。夜の病室で、ポツリとつぶやいた。「もう高校にも、修学旅行も行けない。マユ、何もできない」。初めて聞く娘の弱音に、母は返す言葉が見つからなかった。
 9月、院内学級が始まった。病室を出て、白衣を着ていない教師と話すことが気分転換になった。教わったビーズ細工に熱中し、看護師らに贈った。
 腹膜透析は順調で、むくみや血圧も落ち着いた。病院から受けに行った県立高校の推薦入試も合格した。「女子高生になれる」。希望が戻ってきた。

3 突然激痛、ヘリで病院へ

 東北地方に住むマユさん(17)は中学3年生だった2009年夏に急性腎不全になり、東北大病院に入院した。厳しい治療に耐えたが腎機能は回復しなかった。自宅に機械を持ち込んで腹膜透析を行うことになり、翌年1月に退院した。
 腹膜透析では、おなかに埋めた管を寝る前に機械につなぎ、眠っている間に体内の老廃物や余分な水分などを外へ出す。きちょうめんな性格のマユさんは、毎回の管の消毒や、入浴のときの処置も上手にこなした。母(47)は、マユさんが寝返りを打って管をつぶさないか心配で、同じ部屋に布団を持ち込んで、ほとんど寝ずに見守った。
 春が来て、高校生活が始まった。マユさんは透析のせいで、眠れない日々が続いていた。起き抜けの顔は常に青白かった。
 「遅刻でも早退でもいいから、みんな待っているよ」と、学校側は理解を示してくれた。だが、マユさんは中途半端を嫌った。「遅刻や早退するくらいなら、その日は休む」。知り合ったばかりの同級生に、一から病気の説明をするのも煩わしかった。数日通った後、学校から足が遠のいた。
 独自に通信教育で学んだり、ビーズ細工に凝ったり、母とショッピングセンターを散歩したりして、半年余りが過ぎた。
 12月半ば。その年の最後の診察を終えて、主治医の森本哲司さん(46)に「また来年」とあいさつした夜だった。突然、激しい腹痛がマユさんを襲った。眠れないまま夜明けを迎え、救急車で近くの病院へ駆け込んだ。しかし血圧は下がり続ける。結局、東北大病院にヘリコプターで運ばれた。
 おなかの管から雑菌が入り、腹膜炎を起こしていた。腹膜透析に腹膜炎はつきもので、通常は抗生剤で治まることが多い。だが、途中で炎症の原因となる病原体の種類が変わったため、何度も薬を変えなければならなくなり、治療は難航した。
 「なんでもいいから、痛いの止めて」。腹痛と、薬の副作用の吐き気で、マユさんはほとんど眠れなかった。母は、途切れなく痛み止めを点滴してもらえるように、時計ばかりを気にしていた。「おなかの管を抜いて、腹膜透析をやめましょう」。森本さんは決断した。

4 移植へ検査のため上京

 急性腎不全のため腹膜透析を始めた東北地方のマユさん(17)は、2010年暮れに腹膜炎を起こし、東北大病院に再入院した。おなかの管を外して腹膜透析をやめ、頸(けい)静脈に緊急の血液透析の出口を作ると、炎症は治まった。
 「将来の移植も視野に入れて、相談したい」。主治医の森本哲司さん(46)は、子どもの腎臓移植で実績がある東京女子医大病院(東京都)の腎臓小児科に連絡を取り始めた。
 再び腹膜透析を始めても、5~10年後には腹膜が使えなくなる。若いマユさんの将来を考えると、透析に頼り続けることは難しく、いずれ移植を考える必要があった。東京女子医大での移植に向けた検査を提案した。
 ちょうどそのころ、院内学級でマユさんと一緒だった心臓病の女の子が、米国で移植手術を受けて成功したと報じられていた。マユさん家族の頭の中で、「移植」と「回復」が、つながって像を結んだ。
 移植の可能性を頭の片隅におきながら、マユさんは11年2月、鎖骨のそばに新しく透析の出口を作ることになった。だが途中で血栓が見つかりカテーテルを挿入できず、急きょ脚のつけ根の静脈に出口をつくった。
 麻酔から目を覚ますと、脚からチューブが出ていた。曲げるのが痛く、トイレに座るのもつらい。こんなこと、聞いていない。「要するに、手術に失敗したんでしょう?」。ずっと我慢してきたマユさんが爆発した。
 年末に入院したときは、抗生剤治療ですぐに治ると聞いた。だがこの2カ月間で、おなかの管を外し、頸静脈に緊急の血液透析の出口をつくり、今は足を動かせない。更に鎖骨の出口を再度、作り直さねばならない。
 「もう誰にも会いたくない。東京に行くから、ママ、救急車呼んで、早く」。強い口調で怒りを母(47)にぶつけた。「マユ、東京には、ちゃんと準備してから行こう」。ただ、なだめることしかできなかった。
 2回目の手術は成功し、3月の東京女子医大への検査入院が決まった。マユさんと両親、弟の4人で、新幹線に乗った。
 腎臓小児科の菅原典子(すがわら・のりこ)さん(34)が検査内容と、将来の移植について説明した。マユさんの表情は硬いままだった。

5 震災きっかけ 急きょ移植

 急性腎不全を発症し、腹膜透析を続けていた東北地方のマユさん(17)は昨年3月3日、腎臓移植に向けた検査のため東京女子医大病院に転院した。1カ月ほどかけて、腎臓の状態や心身ともに移植に耐えられるかを調べることになった。
 マユさんが入った4人部屋には、同じ年頃で、腎臓病と闘う女の子たちばかりがいた。
 「その薬、顔むくむよ。でも、ちょっとしたら治まる」
 「移植すると生もの食べられなくなるから、手術の前にお刺し身食べたほうがいいよ」
 病気や手術の情報交換や相談が活発に飛び交った。カーテンを開け放し、おしゃべりの絶えない部屋で、マユさんは声を上げて笑うようになった。
 そして、3月11日を迎えた。
 東日本大震災が起きた午後、マユさんと母親(47)は病室にいた。東北地方の自宅は高台にあり、すぐに家族全員の無事を確認できた。ただ、テレビで流れる津波の映像から、目を離せなかった。
 主治医の菅原典子さん(34)は、検査が終わっても透析が必要なマユさんを被災地へ帰すのは難しいと考えた。「移植しましょう」。当初は半年ほど先と考えていた移植の手術日程を急きょ確保した。母の左の腎臓を、移植することが決まった。
 4月8日朝、二つ並んだ手術室に、相次いで母とマユさんが入った。母は午後4時には病室に戻り、3日後に退院した。マユさんは2晩、集中治療室(ICU)で過ごしてから、友だちがいる4人部屋に戻った。
 経過は順調で、病気を発症した頃のつらさに比べれば、傷痕の痛みなど何でもなかった。5月に退院。感染症の危険が高い被災地の自宅には帰らず、都内の宿泊施設で過ごした。
 昨年暮れ。ようやく、自宅に戻った。免疫抑制剤など4種類の薬を飲み続けているが、「プリンとか好きなものを食べられる」のが何よりうれしい。毎晩の透析も、もう必要ない。
 通信制高校に入り直し、学生生活も再開した。将来は、メークやネイルの仕事をしたい、でも保育士にも大学生活にも憧れる。「やってみたいことがありすぎて、困るくらい」。笑顔を浮かべたほおが、ほんのりピンクに染まった。

6 情報編 学校の検尿いかして

 腎臓には、血液を濾過(ろか)して尿を作る役割がある。病気になっても、尿の異常以外には、自覚症状がないまま進行するものが多い。重症になって腎機能が失われると、機械で老廃物を除去したりする透析か、移植手術を受けるしかない。尿検査などによる早期発見が重要だ。
 子どもに多い腎臓病には生まれつき腎臓に問題があるもののほか、何らかの原因で大量のたんぱく尿が出るネフローゼ症候群、血液の濾過機能が働かなくなる腎炎などがある。
 腎臓が十分に働かない状態を腎不全という。特に腎機能が正常時の15%未満になる「末期腎不全」になると、透析などが必要になる。日本小児腎臓病学会の2009年の報告では年間60人前後が末期腎不全になり、透析か腎臓移植を受けていた。
 透析には、おなかにカテーテルを埋め込んで、自宅で行える腹膜透析や、病院に週3回程度通って腕から行う血液透析などがある。しかし学校に通う子どもにとっては、負担が大きい。透析がなくても、食事でのカリウムやリン、水分の制限や運動の制約などもあり、治療中は大人以上につらい思いをしなければならない。
 学校検尿は国際的にも珍しい日本独自の制度で、血尿とたんぱく尿を調べることで、初期の腎機能低下を発見できる。導入から関わってきた村上睦美(むらかみ・むつみ)・日本医科大名誉教授は「日本で末期腎不全に至る子どもは着実に減っている。日本で透析を必要とする20歳未満の腎臓病患者の割合は、米国の4分の1ほどだ」と話す。
 東京で学校検尿を行う東京都予防医学協会によると、2009年度は小学生約22万人、中学生約9万3千人が検査を受けた。このうち小学生1073人、中学生640人が、腎炎や血尿、たんぱく尿などの疑いが見つかり、治療や経過観察が必要だった。
 正しい検査結果を得るためには、起きてすぐの尿を採って提出することが重要だ。
 東京女子医大腎臓小児科の服部元史(はっとり・もとし)教授は「本質的な原因がまだわかっていない病気も多く、予防は難しい。自覚症状も少ないので、定期的に検査を受けて早期発見につなげてほしい」と話す。

■ 子どもの病気 筋ジストロフィー

(2012年2月:朝日新聞)

1 怖くて確認検査2年後に

 「1、2、3」
 横浜市の高校3年生、川西謙吾(かわにし・けんご)君(18)は毎朝7時ごろ、母親の真知子(まちこ)さん(50)の掛け声で身支度を始める。ベッドの上で朝食を食べ、歯を磨き、ベッドの脇でトイレも済ませる。
 謙吾君は、手首や足首の先しか動かせない。全身の筋肉が徐々に衰えていく筋ジストロフィーのためだ。通学の際には、真知子さんが身長150センチ、体重69キロの謙吾君をおぶって車いすに移す。
 謙吾君に異変が起きたのは、1歳半のとき。17年前の3月、かぜで高熱が出た謙吾君を近くの病院に連れていくと、念のために血液検査を受けさせられた。「尋常ではない」と言われ、訳がわからぬまま、聖マリアンナ医大横浜市西部病院(横浜市)小児科を紹介された。
 精密検査を受けると、肝機能を示すGOTの値などが高かった。だが症状はなく、原因もわからなかった。7月に入り、クレアチンキナーゼという筋肉の細胞が壊れたときに出てくる酵素の値も異常に高いことがわかった。筋肉関係の病気が疑われ、9月に同じ病院の小児神経外来を受診することになった。
 そこで初めて、謙吾君に筋ジストロフィーを含む筋疾患の可能性があることや、正確な診断には専門の施設での検査が必要だと説明を受けた。
 「筋ジスの可能性も」という言葉を聞き、真知子さんは、頭が真っ白になった。「確認検査をしなければ」と思う一方、確かめるのが怖かった。専門の横浜市立大市民総合医療センターを紹介してもらう気になれたのは、2年後の3月だった。
 翌月、遺伝子を調べる血液検査を受け、デュシェンヌ型の筋ジストロフィーと診断された。筋ジスは遺伝子の異常によって筋肉の細胞が壊れ、筋力が低下していく病気の総称で、呼吸器や心臓の筋肉にまで進むと、呼吸不全や心不全を起こす。デュシェンヌ型は中でも、重いタイプだった。
 「10歳前後で歩けなくなり、20歳を超えると生命的に危ないことが起きる病気です」。主治医の小林拓也(こばやし・たくや)さん(49)(現・能見台こどもクリニック院長)から説明を受けた真知子さんは「何でうちの子が」と、何も考えられなくなってしまった。

2 病気隠して幼稚園に

 横浜市の川西謙吾君(18)は3歳だった1997年4月、横浜市立大市民総合医療センターでデュシェンヌ型の筋ジストロフィーと診断された。同病院の主治医だった小林拓也さん(49)から根本的な治療法がないと説明を受け、母の真知子さん(50)は先のことが何も考えられなくなってしまった。
 小林さんは「最初の1年は親が病気を受け止める時期」と考えていた。真知子さんとの面談では「今を見つめてこれからどうするかを考えて」と言い続け、親の会「神奈川県筋ジストロフィー協会」代表の鍵和田貴実代(かぎわだ・きみよ)さん(52)を紹介した。
 真知子さんは、しばらくは連絡をとる気力も持てなかったが、思い切って鍵和田さんに電話してみた。謙吾君より一つ下の息子も、同じ病気だという。闘病のつらさを感じさせない鍵和田さんの「元気さ」にひきこまれ、一人で抱え込んでいた悩みも自然にはき出せた。
 「謙吾君が生まれてきたのは、あなたなら育ててくれると、子どもがあなたを選んできたのよ」とも言われ、ふっきれた。いつしか「親が前向きでないと子どもも元気でいられない。今すぐどうなるわけではない」と思えるようになった。
 当初は行かせるつもりではなかった幼稚園にも半年遅れで、その年の10月から通わせることにした。「友達と楽しめるうちに、楽しんでもらいたい」と思ったからだった。
 まだ、見た目では病気とはわからなかったので、幼稚園側にはあえて、病気のことは言わなかった。「言ったら受け入れてもらえないかもしれない」と不安だった。このときはもし症状が進み、少しぐらいけがをしても、仕方がないと覚悟した。
 年中の5歳になると走るのが遅く、転びやすい上に、ものを握る力が弱いことが目立ってきた。それでも、幼稚園側には「ちょっと倒れやすく、発達も遅いので守ってあげて」と伝えただけだった。
 年長になると、滑り台で遊んでいるときに地面に落ちて後頭部を打ち、病院に運ばれる事件が起きた。幼稚園側にはもっと注意してもらいたかったが、病気のことは隠しておかなければいけない。ただ、見守るしかなかった。

3 「車いす恥ずかしくない」

 3歳のときにデュシェンヌ型の筋ジストロフィーと診断された横浜市の川西謙吾君(18)は、病気のことは伏せたまま、幼稚園に通っていた。
 だが、小学校では入学前に健康診断がある。母親の真知子さん(50)は、もう隠し通せないと思った。入学前の秋から、学区の市立原小学校の校長に病気のことを話し、普通学級での受け入れを頼んだ。
 校長は「話し合いながらやっていきましょう」と前向きで、2000年4月から、普通学級に通うことになった。
 学校は自宅の真裏だったので歩いて通えたが、校内では床の段差で転ぶことが多かった。転びやすいことは、担任の先生から事前にクラスの子に伝えてもらっていたため、近くにいる子が自然と助けてくれた。
 2年生の後半から、しゃがんだ状態から立ち上がるのに5秒ほどかかるなど、動きの遅さが目立ち始めた。3年生の夏には校内外の移動用に、電動と手動の車いすを置くようになった。
 謙吾君は、長い距離を移動するときなど、限られたときしか車いすには乗ろうとはしなかった。「1人だけ目立つのは恥ずかしい」という気持ちが、消えなかった。
 5年生の7月、転機となる事件が起きた。
 3年生ごろからズボンを1人で脱いだりはいたりすることができなくなったため、トイレに行くときは先生が付き添い、洋式便器の前に立ってズボンを脱がしてもらっていた。ところがこの日は先生がズボンを脱がそうとする力に耐えられず、便器に顔から突っ込んでしまった。
 「もう車いすにのらないといけない」。謙吾君も覚悟した。しかし2学期が始まっても、しばらくは踏み切れなかった。

 真知子さんは、作戦を考えた。9月上旬、謙吾君の誕生日祝いを兼ねて家族で東京ディズニーランド(千葉県浦安市)に出かけた。ディズニーランドでは車いすが最優先で、アトラクションも並ばずに利用できる
 「車いすでも恥ずかしくない」と思えた謙吾君は、通学のときも含め、車いすの生活に切り替えることになった。
 一方で、「なぜ、車いすに乗らないといけないのか」との疑問が徐々に膨らんできた。

4 寝たきりイヤ 背骨手術

 全身の筋肉が衰えていくデュシェンヌ型の筋ジストロフィーと診断された横浜市の川西謙吾君(18)は、小学校5年生の9月から、いつも車いすで生活するようになった。
 中学校への進学時には養護学級も勧められたが、友達がいる普通学級に進みたかった。母の真知子さん(50)は、トイレ介助や授業の手助けをする有償ボランティアの利用を条件に、普通学級に通えるよう市の教育委員会に頼んだ。中学校側の理解もあり、認められた。
 入学後は、筋力の低下がさらに進んだ。車いすに座っていても体を支え切れず、前に倒れてしまうことが目立ってきた。デュシェンヌ型では約9割の患者にみられる「側湾(そくわん)」と呼ばれる症状だった。
 中学生から謙吾君の主治医になった聖マリアンナ医大横浜市西部病院の宮本雄策(みやもと・ゆうさく)さん(39)は、より専門的な対応が必要と考え、国立精神・神経医療研究センター病院(東京都小平市)の小牧宏文(こまき・ひろふみ)さん(46)を受診するよう勧めた。2年生の夏に受診すると、小牧さんは、背骨にチタン合金を入れて側湾を防ぐ手術があると伝え、整形外科の竹光正和(たけみつ・まさかず)さん(49)を紹介した。
 手術は、首の下から腰まで切り開き、背骨に長さ約30センチ、直径5.5ミリのチタン合金の棒2本をボルトなどで取り付け、曲がった背骨を伸ばして固定する大がかりなものだった。
 筋ジスの患者は心臓や呼吸器の機能も低下していくため、手術中に亡くなる危険性も高かった。一方で、手術をしないと、車いすにも座っていられず、寝たきりになる可能性があった。
 竹光さんは、手術を受けなかった方がよかったという患者がいたことも伝え、「やった方がいいのかどうかは、正直わからない」と説明した。謙吾君と真知子さんは「やらないと、このまま寝たきりになって学校にもいけなくなる」と手術を選択した。手術の経験が豊富な北里大東病院(相模原市)の高相晶士(たかそう・まさし)教授(47)の紹介を受けた。
 謙吾君は手術の話を聞いて怖かったが、高相教授に「一生懸命やる」と言われ、安心した。11月、6時間の大手術を受け成功した。背中がまっすぐになり、背が伸びた感じがした。

5 進行自覚、でも働いてみたい

 横浜市の川西謙吾君(18)は、デュシェンヌ型筋ジストロフィーの進行に伴い上半身の筋力が低下していった。中学2年生の11月、側湾(そくわん)症を抑える手術を受けた時に入院計画書をみて、初めて自分の病気が筋ジストロフィーであると知った。
 手術後は長い時間、ベッドの上でも座った姿勢を保てるようになり、試験勉強も長時間できるようになった。しかし高校では中学までのような学校の協力は受けにくいと判断し、通信制の横浜修悠館高校に入学した。
 自分で選んだ科目だけ受けに通えばよく、トイレ介助や教材の出し入れを手伝ってくれる支援員と一緒に授業を受けることもできた。授業は楽しく、週10コマほど選んで通学した。
 1年生の夏休み。国立精神・神経医療研究センター病院で受けた検査で、夜に呼吸機能が低下していることがわかった。
 今後さらに呼吸機能が低下し、放っておくと呼吸が止まってしまう危険性があるという。主治医の小牧宏文さん(46)は夜寝るときだけ、マスク型の人工呼吸器を付けることを勧めた。次第に心臓の筋肉も弱っていくとも説明し、心臓の定期検査も受けることになった。
 謙吾君はこのとき初めて、筋ジスが、やがて自発呼吸ができなくなる病気であることを知った。手術のときに病名を知り、インターネットで調べようとしたが、母親の真知子さん(50)に止められたことがあった。以来、「それ以上調べてはいけない」と思っていた。
 ただ、考えても不安になるだけだと思い、今も積極的に病気のことは調べていない。
 今春、高校を卒業する。無理して大学には進学せず、簿記の資格を取ることを目指しながら、好きなパソコンをいかせる仕事がないか探している。
 以前からファンだったAKB48の話題でつながったメル友の中には、病気や就活のことも話せる同世代の女の子も現れた。就活中であることをメールしたら、「今できることを、少しずつがんばっていけばいいよ」と励まされた。
 「できないことが増え、仕方がないとあきらめることが多くなった。でもお金を自分で稼ぐ喜びを、感じたい」

6 情報編 症状軽減へ 新薬に期待

 筋ジストロフィーは、遺伝子の異常によって筋肉を維持するたんぱく質が正常に働かず、筋肉の細胞が壊れ、筋力が低下していく病気の総称だ。
 発症時期は幼児期から大人まで様々だが、子どもではデュシェンヌ型というタイプが最も多く、約3分の1を占める。この型は性別を決めるX染色体上にある遺伝子の異常が原因のため、男の子にだけ出る。出生男児3500人に1人の割合で発症する。遺伝子の異常は母親から遺伝するが、3人に1人は突然変異で発症する。
 7割が遺伝子診断でわかるが、遺伝子の異常が見つからなかったときは筋肉の一部を採って調べる筋生検が必要だ。4歳前後で、走るのが遅い、転びやすいなどの異常が目立ち始め、診断につながる場合が多い
 筋力の低下により10歳前後で歩けなくなり、呼吸器や心臓の筋肉の細胞にも進むと、呼吸不全や心不全を引き起こす。国立病院機構東埼玉病院(埼玉県蓮田市)の川井充(かわい・みつる)院長(神経内科)は「1970年代まではデュシェンヌ型の患者の平均寿命は20歳を切っていた」と話す。
 しかし、80年代以降は人工呼吸器の導入など、早期からの呼吸管理の技術が進み、2000年には平均で27歳を超えた。「最近は心臓の治療も進んでさらに延長し、40歳以上の患者もまれではなくなってきました
 90年代以降は早くから電動車いすを使うことで生活の質をあげ、小中学校で普通学級に通う割合も増えてきた。だが車いすの生活になると体を動かさなくなるため、背骨が曲がる側湾症が出やすくなり、約9割の患者に症状がみられる。
 治療法にはチタン合金の棒を背骨に取りつけ、背骨の変形を直して抑える手術があるが、手術中に死亡するリスクも8%ほどある。進行するとさらにその率が高まるため、高相晶士(たかそう・まさし)・北里大教授(整形外科)は「手術を決断したときは、早めに受けることを勧めている」と話す。
 87年にデュシェンヌ型の原因がわかったことで、筋肉の中で欠けているたんぱく質に似たものを作らせる新薬の治験も進んでいる。「完全ではないが、デュシェンヌ型の症状をより軽くすることが期待されている」と川井さんはいう。

■ 患者を生きる 肥満と糖尿病(2012年2月:朝日新聞)

1 「あなたはアウト!」

 「人より、少しぽっちゃりめかな」。高知市で調理の仕事に携わる中島(なかじま)絵里(えり)さん(25)は中学校に入ったころ、自分の体形についてこう思っていた。
 身長148センチで体重は56キロ。本当は「ぽっちゃり」以上だが、採石場で働く父親(61)はがっしりした体格で、電気機器部品の工場に勤める母親(54)もややふくよかな体つき。妹2人は自分よりもふっくらしていたので、あまり深刻にとらえていなかった。
 事情が変わったのは、1学期の終わりごろだった。健康診断の尿検査で尿糖が高く、「再検査が必要」と紙を渡された。
 高知市街から約70キロ離れた四国山地の山深い地域で育ち、自宅から4キロ離れた中学校へはスクールバスで通っていた。部活動は、女子はバレーボールと卓球だけで、「どっちも嫌だ」と入らなかった。体を動かすのは、体育のときぐらいだった。
 2学期になったら、再検査の結果を学校に報告しなければならない。夏休みが終わる直前、中島さんは母親と一緒に近くの総合病院を訪ねた。朝食を抜いて採血した。
 中島さんを診察したのは、南国市にある高知医大病院(現・高知大病院)から来ていた岡田泰助(おかだ・たいすけ)さん(50)だった。
 過去1~2カ月の平均的な血糖値を示すHbA1c(ヘモグロビン・エー・ワン・シー)の値が8.4%あり、基準値の5.8%を大きく超えていた。エコー検査で脂肪肝も見つかった。岡田さんは中島さんに告げた。
 「はい、アウト! あなたは糖尿病です」
 そう言えば、祖父母も糖尿病と言われ、親類は糖尿病が悪化し透析も受けていたっけ――。でも糖尿病って、「成人病」の一種じゃないの。子どももなるものなんだろうか。中島さんはピンと来なかった。
 だが、岡田さんは、こう考えていた。
 中島さんの身体に、すぐ生命の危険が及ぶわけではないが、糖尿病の治療は必要だ。2学期が始まると、外来に何度も通うのは中島さんにも親にも負担だろうから、病院に10日間ほど入院してもらい、いまの食生活を見直してもらおう。
 強制的な「教育入院」。始まったのは13回目の誕生日だった。

2 日常だった大皿のおかず

 高知市の中島絵里さん(25)は、中学1年生だった13年前の8月、高知医大病院(現・高知大病院)の岡田泰助さん(50)に糖尿病だといわれ、10日間ほど教育入院することになった。
 1年生全員で北海道に旅行する予定だったが、入院と重なった。担任の先生の口から病名が学年中に知れ渡り、傷ついた。
 入院後の検査で、血糖値を下げるインスリンの効きが弱いことがわかり、2型糖尿病と診断された。
 免疫異常でインスリンが分泌できない1型はインスリン注射が必要だが、2型は、遺伝的な理由に加えて生活習慣も影響しているため、食事や運動を見直さなくてはならない
 入院中は毎日、管理栄養士から食事の注意点を教わった。ご飯は事前に量ること、牛乳・卵、肉・魚、野菜・芋、穀物・砂糖の4食品群からバランスよく食べること――。
 それまで中島家の食事は、主菜を大皿に盛り、食卓の真ん中に置き、各自が好きなだけ食べた。
 煮物や炒め物が主だが、自分がどれぐらい食べたのかわからなかった。間食は菓子パンやアイスクリームが多かった。
 退院後は教えを守り、給食もご飯はきっちり150グラム、パンは半分しか食べなかった。しかし1カ月経たぬうちに、家庭では以前に戻った。
 帰宅の遅い母に代わり、中島さん姉妹が食事の支度をしていたが、栄養計算は徹底できなかった。
 それでも治療には通い続けた。3カ月に1度、親の車で約1時間半離れた病院に向かい、検査を受けた。指標となるHbA1cの値は一進一退。基準値の範囲におさまらなかった。
 岡田さんから、その度に「下がってない」と注意された。努力不足とはいえ、毎回小言を言われるのは、精神的にきつい。母親は、いつからか診察室に入らなくなった。
 高校に入学すると、山あいの7キロの道のりを自転車で通うようになった。しかし体重は60キロ前後から変わらなかった。
 受診後しばらくは気をつけたが、やがて元通りの繰り返しだった。
 高校卒業を機に親元を離れ、高知市で暮らし始めた。20歳で調理の仕事についた頃、本格的に自炊を始めて気づいた
 「あれ、1人分ってこんなに少ないんや」

3 姉妹で食生活変え減量

 中学1年生で2型糖尿病と診断された中島絵里さん(25)は、高校卒業後、高知市内で暮らし始めた。実家では大皿から料理を取り分けていたが、自炊を始めてから「1人分」の食事量がわかってきた。体重は徐々に落ちていった。
 主治医の岡田泰助さん(50)は高知大病院を辞め、もみのき病院(高知市)に移っていた。通院を続けるうちに、HbA1cの値はほぼ基準の範囲とされる5%台に下がっていった。
 2人の妹も高知市で進学や就職が決まり、3年前から3姉妹で一緒に暮らすことになった。
 ところが、パティシエを目指して専門学校に通っていた末の妹(21)の体重が80キロを超えていて、心配した父親が、中島さんに頼み込んだ。
 「仕事で甘いもんをよう食べるろうから、いまのうちなんとか痩せさせてやってくれ」
 中島さんは、妹の減量に一役買うことにした。
 主菜は魚を中心に、汁物は野菜いっぱいのダイエットスープ、ご飯は子ども用茶わんに1膳だけと決めて月単位でメニューを考えた。夜には、1時間の散歩に付き合った。半年ほどで妹は15キロも痩せることができた。
 妹の減量に付き合ううち、中島さんも身長152センチ、体重47キロ前後をキープできるようになった。体重が50キロを大きく超えなければ、HbA1cの値が5%台を維持できることも経験からわかってきた。
 いまは我慢せずに食べたいものを食べている。ときには妹が職場から持ち帰ったケーキを何切れも食べることもある。時々体重計に乗っている。
 よく献血をしていたが、3年ほど前からは、HbA1cと同様、血糖値の傾向がわかるグリコアルブミン値も献血でわかるようにもなった。
 岡田さんの診察を受けるのは、いまは年に1回に減った。以前は先生に叱られているような気がして「先生なんて嫌い」と思っていたが、いまは余裕を持って話すことができる。
 「『ケーキ1台』を丸々食べるときもある」。中島さんが言っても、岡田さんは笑って聞き流している。中島さん自身がもう、運動や食事の量を調整できることを知っているからだ。

4 不登校で過食の日々

 朝は空揚げ6個、サンドイッチ1個、クリームパン1個、カレーにご飯3合。昼は母の弁当。おやつはスナック菓子5袋。夜はシチューにご飯3合。
 高知市の仙頭忍(せんとう・しのぶ)さん(26)が中学生のときの1日の食事量だ。食欲は底知らずで、ご飯は1食で3合は必要だった。ボウルいっぱいに作ったポテトサラダを1度に平らげ、母親(64)から「お弁当用やったのに」とため息をつかれたこともしばしばだった。
 食事の時間も量も、幼い頃から不規則だった。両親が不仲で、夕方に近所の親類の家で軽く食べ、その後に自宅でもう一度夕食というように、1日4~5食が普通だった。小学3年生のときに母親が家を出た。「洗濯する人が家にいないんじゃないの」などと陰口を言われ、いじめられるようになった。
 中学1年生の夏に両親が離婚し、母親と隣町で暮らし始めた。転校先でやり直そうと、同級生に笑顔で話しかけるようにした。しかし疲れるばかりで、あまり学校に行かなくなった。
 2年生のとき、学校健診の検尿で糖が出て再検査するよう連絡が来た。不登校だったが、当時の養護教諭が熱心に毎日電話をかけてきた。3年生になると、登校し、保健室で過ごす日も出てきた。
 中学校生活も残りわずかとなった12月。たまたま朝食を食べなかった日があった。母に誘われ、ようやく地元の総合病院を受診した。高血糖がわかり、紹介された高知大病院の岡田泰助さん(50)を訪ねた。
 「よう来てくれたね」。不登校の子は、一度心を閉じると受診が途絶えてしまう。岡田さんはじっくり仙頭さんの話を聞いて、提案した。「入院してみんかい? 院内学級で勉強もできる」。高校に行きたかった仙頭さんには魅力的な誘いだった。
 年明けすぐに入院した。栄養指導を受け1日の摂取エネルギーを1600キロカロリーと決め、医師や看護師らと一緒に毎晩散歩した。3月末の退院時、体重は71キロから63キロに減り、HbA1cの値は11.3%から6.2%に下がった。単位制の高校への進学も果たせた。
 高校進学を新たな出発点としよう。仙頭さんも病院のスタッフもそう期待した。

5 一進一退 目標は就職

 中学3年生で2型糖尿病と診断された高知市の仙頭忍さん(26)は、3カ月間入院して症状が軽くなり、念願の高校進学を果たした。でも、再出発は順風満帆ではなかった。
 「あの子、糖尿病やのに何で普通の学校にきてるの」。そんな陰口が聞こえ、学校から足が遠のいた。作り笑いをする自分にも疲れた。無意識のうちに、手首や腕をカッターナイフで傷つけることが始まった。
 退院後は、身長153センチで体重58キロ、HbA1cも5.4%にまで改善していた。しかし心が不安定になると、食べるのが止まらなくなった。間もなく体重は60キロ台半ばに戻った。
 苦しくなると、主治医の岡田泰助さん(50)を訪ねた。その都度、入院を勧められ、病院から高校へ通った。話を聞いてくれる人がいるから、自宅にいるより良かった。不安で眠れなくなると、イライラを医師や看護師にぶつけてしまった。
 携帯電話を持ったのを機に、ブログで日記を書き始めた。胸の内をつづると、少しスッキリした。2年生の夏ごろからは、学校が楽しくなってきた。パソコンでの文書作成が得意で、修学旅行のしおり作りを任されたのをきっかけに友だちが増えた。3年生では、生徒会の運営メンバーにもなった。
 「(臨床心理士など)心理職に就きたい」という夢を持つようになり、大阪の大学に進んだ。アルバイトをしたり、好きなミュージシャンのライブに行ったり。岡田さんに紹介された診療所にも通った。
 だが病状は一進一退だった。「生きているのを確認するため」のリストカットは、やめられなかった。幻覚や幻聴を感じて不眠にも苦しんだ。
 大学卒業後、実家で母親と同居している。カロリーに気をつけてはいるが、リラックスして食べ過ぎる日もあり、体重は変動がある。この2カ月で10キロ増え、いま72キロだ。年末に合併症の網膜症も見つかり、インスリン注射による治療も始めた。
 2カ月前から精神科病院のデイケアに通い始め、片道3キロを1時間かけて歩くのが日課だ。苦しんだ分、自分も糖尿病で悩む子の支えになりたいと思う。少しずつ減量し、就職もできたらいいなと思っている。

6 減量押しつけは逆効果

 肥満傾向の子どもは、小学校高学年・中学生で男子の1割前後、女子の6~8%台(文部科学省調べ)。最近5年で減る傾向にあるが、浦上達彦(うらかみ・たつひこ)・日本大学准教授(小児科)によると、東京都内の小・中学生が、学校検尿から2型糖尿病と診断される割合は増えている=グラフ。

二型糖尿病発症率.jpg

 2型糖尿病は、肥満と関係が深く、日本小児内分泌学会の2003年の全国調査では、男子の78%、女子の63%が肥満傾向だった。子どもの糖尿病といえば、以前はインスリンが自分で作れない1型が目立ったが、実は10歳以上では2型も多く、割合は半々という報告もある。2型は遺伝的体質に加え、高カロリーの食事や運動不足が原因となりやすく、現代の食習慣が大きく影響する。治療は食生活の見直しと運動が主だ。
 しかし浦上さんによると、だるさや疲労感などの自覚症状が乏しいため、治療への意識が低い患者が多い。食事内容と時間を全て記録するなど、話題となった減量法をヒントに、患者自身が関心を持ち続けられる工夫も欲しい。運動はウオーキングや体操、サイクリングなど、無理なく続けられるものがいい。
 いずれも本人にやる気がなければ続かず、周囲が押しつけるのは逆効果だという。家族に同じ2型糖尿病の患者がいる例が多いため、家族ぐるみの取り組みも重要となる。内潟安子(うちがた・やすこ)・東京女子医大糖尿病センター長は、「百人いれば百様に、病気になった背景がある。習慣を改めるのは大人でも大変なため、子どもに無理強いはできない。医師が、患者や家族が納得してくれるまで話し合うようにすることが必要だ」という。
 定期的にHbA1cの値の経過をみながら治療を進めていくが、値が好転しないと「叱られる」「また怒られる」と、病院への足が遠のきがちだ。心の不調などが原因で食べる量が抑えられない場合、治療にも時間がかかる。進学や就職などで治療が中断してしまうことも多い。
 治療をやめたまま病が悪化すると将来、網膜症や腎症など重い合併症を発症するリスクがある。大阪医大の高谷竜三(たかや・りゅうぞう)講師(小児科)は、「どんな形でもいいから、定期的に病院に通うのをやめないでほしい」と話す。

■ 患者を生きる:川崎病(2012年1月:朝日新聞特集)

1 旅先で痛み、熱続き発疹も

 「ここ痛い」
 15年前のお盆休み。さいたま市の望月桂(もちづき・かつら)さん(48)は、「隆(りゅう)ちゃん」が首の後ろをさすっているのに気づいた。長男の隆太郎さん(19)が、3歳11カ月だったころだ。
 家族で温泉旅行中だった。初めは「寝違えたのかな」と思ったが、額を触ると熱っぽい。翌日、早めに帰宅して熱を測ると、39度を超えていた。
 お盆休みがあけるのを待って、近所の小児科クリニックに行った。解熱剤をもらったが、熱は下がらなかった。
 容体は時間を追うごとに悪くなった。いつもはおしゃべりの隆ちゃんが、ぐったりして食欲もない。手のひらや足、背中などに、平たくいびつな形の発疹も出始めた。「こんなの見たことない」。驚いて、翌日、再びクリニックに駆け込んだ。
 「川崎病という病気かも知れません」。近くの病院を紹介され、週が明けた8月19日に入院した。発熱してから6日目を迎えていた。発疹に加えて目も充血し、舌はいちごのように真っ赤。川崎病と診断された。
 川崎病は全身の血管が炎症を起こす原因不明の病気。5日以上熱が続き、皮膚や粘膜などに様々な症状が出る。すぐに、炎症を鎮める血液製剤「免疫グロブリン」の点滴が始まった。
 入院2日目には、鼻から胃にも管が通された。腸の働きが鈍くなり、おしっこやうんちがうまく出せなくなっていたため、管から胃の中身を出した。夫の武(たけし)さん(50)らと、交代で病室に泊まり込んだ。
 熱はなかなか下がらなかった。「大丈夫?」と呼びかけても反応が鈍い。顔も手も、ぱんぱんに腫れていた。「死んじゃう――」。胸がざわついて、居ても立ってもいられなかった。
 1週間ほどして、やっと熱が37.5度を下回り始めた。「湿布いやだ」「おなかすいた」とだだをこねる様子に、ホッと胸をなで下ろした。間もなく、鼻から入れていた管が抜けた。
 「炎症が重かったので、心臓の血管に後遺症が残るかもしれません」と、医師が言った。家庭向けの医学書にも、まれにそうなると書いてあった。でもこの時は、それほど気にとめていなかった。(鈴木彩子)

2 冠動脈に瘤 年々悪化

 さいたま市の望月桂さん(48)は、15年前の8月、川崎病にかかって入院した長男の隆太郎さんの熱が下がり、一安心していた。誕生日が来て、「隆ちゃん」は4歳になった。
 退院が近づいた9月、心臓の超音波検査(心エコー)を受けた。炎症で血管の壁の弾力性が弱くなった影響で、心臓を囲んで心筋に栄養を送る冠動脈が2カ所、膨れていた。事前に医師から聞いていたから「ああ、やっぱり出たな」と思った。
 冠動脈が膨れても1カ月ほどで治まる人も多い。退院して、血栓の予防薬アスピリンを飲みながら週1回、心エコーを受けた。でも、膨らみは、1カ月たっても治らなかった。
 紹介状をもらい、今度は埼玉県立小児医療センター(さいたま市)を訪ねた。12月、脚の付け根の血管から細い管を入れて冠動脈の状態を調べる心臓カテーテル検査を受けた。すると、心臓の右、左前、左後ろを走る3本の冠動脈のうち、「左(ひだり)前下行枝(ぜんかこうし)」に6~11ミリの大きな瘤(こぶ)があった。右の冠動脈にも、中くらいの瘤があった。
 瘤があると、血栓や、血管が狭くなるなどで、心筋梗塞(こうそく)が起きる恐れがある。薬を毎日飲むよう、医師から説明を受けた。
 血を固まりにくくするワーファリンなど、3種類の薬を飲み始めた。小さな粒状のパナルジンは、まずい薬だった。水に溶けずざらざらと舌に残る。チョコレートソースや練乳などにまぜて、飲ませた。
 隆ちゃんに自覚症状はなく、元気に過ごしていた。1999年の春、小学校に入学した。持久走など激しい運動以外は、体育の授業もみんなと一緒に受けた。でも、冠動脈の状態はじわじわと、悪化していた。
 11月、3回目のカテーテル検査を受けると、大きい瘤の手前の血管がひょうたんのようにくびれ始めていた。「成人なら手術する状態」だった。3年生の冬、血管はさらに狭まり、「今後はかけっこも控えて」と言われた。なわとびもダメという。
 「これじゃ何もできません」と循環器科の主治医、小川潔(おがわ・きよし)さん(57)に訴えた。セカンドオピニオンについても相談した。小川さんは、川崎病の病後の血管障害の治療に詳しい日本医科大(東京都)を紹介した。

3 術後9年 笑って話せる

 さいたま市の望月桂さん(48)は2002年2月、小学3年生だった長男の「隆(りゅう)ちゃん」と、日本医科大を受診した。隆ちゃんの冠動脈には瘤(こぶ)があり、血管の一部が狭くなっていた。
 心筋に血液が行き渡っているかを調べる検査や、運動負荷をかけての心電図検査、心エコー検査などを受けても、明らかな異常は見られなかった。
 ただ、心臓の前を走る左前下行枝にできた瘤は大きく、その手前の血管がふさがりかけていた。循環器が専門の小児科教授、小川俊一(おがわ・しゅんいち)さん(61)は、より詳しい検査を提案した。
 4年生の夏、先端にセンサーがついたワイヤを冠動脈に通して、血流の速度や圧力などを調べた。その結果、運動などで心臓に負荷がかかると血液が速く流れず、心筋に行き渡らなくなる恐れが高いと分かった。
 小川さんは「そう遠くない時期に」と手術の話をした。瘤のある血管の形や壁の厚さから、風船などで血管を広げるカテーテル治療より冠動脈バイパス手術が適していると考えていた。
 「やっと先が見えた」と思った。「出来るだけ早い時期に」と希望すると、すぐ日程が決まった。10月末に手術を受けた。
 心臓血管外科教授の落雅美(おち・まさみ)さん(63)が執刀した。胸を縦に開き、心臓のすぐ近くを走る「内胸動脈」という太さ1ミリほどの血管を、流れが悪くなった左前下行枝に縫い合わせ、迂回(うかい)路を作る。一時的に心臓を止める約3時間の手術だった。
 手術後、目を覚ました隆ちゃんは、開口一番「い、痛い」。はっきりと意識があった。
 経過はほぼ順調で、3週間余りで退院した。
 手術の半年後、カテーテル検査で冠動脈の状態を調べると、つないだ血管から脈々と、血が流れていた。血を固まりにくくするワーファリンを卒業した。皮下出血して青あざだらけになる心配も、いらなくなった。
 それから9年。血栓を予防する別の薬は、今も毎日飲んでいる。定期的に検査にも通う。小学生だった隆ちゃんは、19歳の「隆太郎さん」になった。昨年から調理助手として働く。
 胸のX線を撮ると、手術の際に骨を留めた針金が写るという。「僕の体は筋金入り」と隆太郎さん。今は笑って話せる。

4 治ったはずだったのに

 京都府の会社員池田恭久(いけだ・やすひさ)さん(38)は2010年7月の夜、自宅で心臓をわしづかみにされるような痛みに襲われた。急性心筋梗塞(こうそく)だった。とっくに「治ったはず」の川崎病が関係しているなんて、思っていなかった。
 3歳のころ、首のリンパ節が痛みだし、高熱と発疹が3日以上続いた。母春美(はるみ)さん(64)に連れられて府内の病院に行くと、川崎病と診断された。
 薬の点滴などを受け、1カ月半入院して自宅に戻ったが、心臓を取り囲む左右の冠動脈の根元に、巨大な瘤(こぶ)が残った。右の瘤は直径1センチほど、左は長さ3センチ、幅2センチほどあった。「いずれ手術をしなければ、生きられない」と言われた。
 薬を飲み、定期的に心臓カテーテル検査を受けながら、様子を見ることになった。
 心臓に危険な瘤を抱えているという認識は、幼い恭久さんには皆無だった。自分では痛くもかゆくもない。母の心配をよそに、友達と外を駆け回り、自転車で遠出もした。小学生になってからは、体育の授業も運動会も、思う存分楽しんだ。
 6年生のころ、いつものように検査を受けると、瘤の先の血管が数カ所狭くなり、一部、血が流れにくくなっていた。
 医師は「手術せんとあかん」と、冠動脈のバイパス手術を多く手がけていた奈良県立医科大病院を紹介した。
 「なんでやろ?」。手術と聞いてもピンと来ないまま1月、電車で2時間以上かけ、病院がある奈良県橿原市に向かった。
 心臓血管外科の北村惣一郎(きたむら・そういちろう)さん(71)=現・国立循環器病研究センター名誉総長=が主治医になった。10日後、詰まりかけた冠動脈に、別の血管を3本つなぐ手術を受けた。
 手術室は、とても寒かった。「絶対起きててやる」と頑張ったけれど、手術用の無影灯がついたところで、眠りに落ちた。
 子どもの冠動脈バイパス手術は、当時はまだ珍しかった。北村さんは、心臓の近くを走る2本の内胸動脈に加えて、左脚から取った静脈を使って血管をつないだ。8時間に及ぶ大手術だった。
 「気がついた?」。手術後、目を開けると春美さんの顔が見えた。「俺、生きてんのや」。ほっとしたら、泣けてきた。

5 通院必要だった、心底思った

 川崎病の後遺症が残った京都府の池田恭久さん(38)は、小学6年生の冬、冠動脈に別の血管を3本つなぐバイパス手術を受けた。1カ月で退院した。
 春、中学生になった。手術のことはよく分からず、「もう治った」と思っていた。でも野球やサッカーなどの部活動は「何かあるといけない」と教師らに止められた。「しゃあない」と思ったが、悔しかった。
 術後5年ほど過ぎた高校3年生のころ、母春美さん(64)と奈良県立医科大病院に行った。主治医の北村惣一郎さん(71)の「もう心配いらんで」という言葉が印象に残った。手術がうまくいっても定期的な通院は必要だった。でも「治ったんや。これで自由や」と思った。
 高校を卒業して自動車関連の会社に就職すると、次第に病院から足が遠のいた。血栓を予防する薬はいつの間にか飲まなくなっていった。
 「そういえば、手術してからずいぶん時間がたつな」
 30歳になり結婚したころ、友人から、家族が心臓発作で亡くなったと聞いた。ほったらかしの心臓がふと気になった。
 でも、今さらどこに連絡を取ればいいのだろう。かつての病院に電話をするにも、何科に何と説明をすればいいか分からず、そのまま6年が過ぎた。
 2010年7月の夜、自宅でビールを飲みながら妻(34)とテレビを見ていた。何げなく立ち上がった瞬間、心臓に激痛を覚えた。5分たっても、痛みがひかない。「もしや……」。妻の運転する車で、近くの病院の救急外来に駆け込んだ。
 すぐに冠動脈の造影検査を受け、画像を見て絶句した。「これが俺の血管?」。12歳の時、冠動脈につないだ血管の一つ、左脚から取った静脈が傷み、血栓ができてつまっていた。
 幸い、血栓を溶かす薬を点滴すると血流が再開。その後、かつての主治医だった北村さんが籍を置く、大阪の国立循環器病研究センターに転院した。8月まで入院して、仕事に戻った。
 再手術には至らず、今は抗血液凝固薬などを毎日欠かさず飲んでいる。年に数回は、同センターの小児循環器科に通う。
 「今思えば、通院は続けなあかんかったんやな」。命拾いした今、心底そう思う。

6 情報編 後遺症ある人は検査を

 川崎病は、全身の血管が炎症を起こす病気で、主に4歳以下の子どもがかかる。病名は発見した小児科医、川崎富作さんにちなむ。報告から40年以上たつ今も、原因はわかっていない。
 5日以上続く発熱、大小さまざまな発疹、両目の充血、舌や唇の真っ赤な腫れ、手足の腫れ、リンパ節の腫れの六つが主な症状で、これらが当てはまると川崎病と診断される。
 かかる人は増えている。川崎さんが理事長のNPO法人日本川崎病研究センターによると、2010年は約1万2800人と、20年前に比べ倍増。罹患(りかん)率は発症数が突出した過去3回のピーク時を超え、調査開始の1970年以降、最高だった。
 治療は、炎症を鎮める血液製剤の免疫グロブリンを、短期間に大量に点滴する方法が一般的だ。多くの場合、数日間で熱が下がり、快方に向かう。退院後1~2カ月ほど、血栓を予防するアスピリンを飲み、問題がなければ、治ったと判断される。
 発病後、約9%の患者に、冠動脈の膨らみや瘤(こぶ)などがみられる。うち3分の2は一過性の症状で、1カ月以内に治まり治療を終えることができる。
 残る3分の1には1カ月後も膨らみや瘤が残る。血栓ができたり、血管が狭くなったりするなど心筋梗塞(こうそく)を起こす恐れが高い場合、カテーテル治療や冠動脈バイパス手術の対象となる
 バイパス手術には、体とともに成長する内胸動脈が使われる。かつては脚の静脈も使われたが、治療成績が悪いため、現在は子どもには用いない。
 こうした冠動脈の異常が残った人は、生涯、定期的な検査や服薬が必要になる。しかし近年、服薬や通院が続かなくなる「ドロップアウト」が問題になってきた。患者本人に自覚症状がないため、進学や就職、引っ越しなどをきっかけに、病院から足が遠のくことが多い。
 患者会「川崎病の子供をもつ親の会」の浅井満代表は「30、40代で心筋梗塞を起こし、命を落とした人もいる。後遺症のある人は、検査を続けてほしい」と話す。
 服薬や通院をやめて時間がたち、受診先に迷う場合、「まずは幼いころに通っていた小児科に連絡をとってみて」と、日本医科大の小川俊一教授はアドバイスする。(鈴木彩子)