■ 入門傷寒論(森由雄著)より
<六病位の比較>
病位 | 治療法 |
代表的脈 |
代表的漢方 | |
太陽病 | 表 | 発汗 |
浮 |
桂枝湯 |
陽明病 | 裏 | 瀉下 |
沈 |
大承気湯 |
少陽病 | 半表半裏 | 和解 | 弦 | 小柴胡湯 |
太陰病 | 裏 | 温補 | 沈細 | 小建中湯 |
少陰病 | 裏 | 温補 | 沈細 | 真武湯 |
厥陰病 | 裏 | 温補 | 沈細 | 烏梅丸 |
<六病位の病状>
病状 | |
太陽病 | 脈が浮で頭や後頭部が強ばって痛みを伴い、悪寒 |
陽明病 | 胃家実(便秘) |
少陽病 | 口苦、咽乾、目弦 |
太陰病 | 腹が張って嘔吐し、食べ物が咽を通過せず下痢、腹痛 |
少陰病 | 脈微細、ただ寝ていたい |
厥陰病 | 口渇、胸中が厚い、飢えているのに食べたくない、回虫を吐く |
※ 以下の(○-○)表示は(第○章-第○条)の略
太陽病
要点
【自覚症状】頭痛、頚肩の凝り、悪寒
【他覚症状】浮脈(軽く橈骨動脈に触れてよく触れ、強く圧迫すると脈が触れにくい)
【代表的漢方】桂枝湯 葛根湯 麻黄湯 大青竜湯
悪風と悪寒の違い(1-2)
・悪風:風に当たって寒気を感じる
・悪寒:風に当たらなくても寒気を感じる
太陽病の分類(1-3)
【太陽病虚証(中風)】(発汗あり)・・・発熱、悪風、頭頂強痛、脈浮緩
【太陽病実証(傷寒)】(発汗なし)・・・発熱、悪寒、体痛嘔逆、脈浮緊
温病(うんびょう)の定義(1-6)
太陽病、発熱、口渇、悪寒なし
陽病と陰病の発症について(1-7)
・発熱、悪寒の者→ 陽病(太陽病、少陽病、陽明病)から発病
・無熱、悪寒の者→ 陰病(太陰病、少陰病、厥陰病)から発病
真寒仮熱と真熱仮寒の治療(1-11)
・体表に熱&体内に寒(真寒仮熱)→ 温める治療(真武湯 四逆湯)
・体表に寒&体内に熱(真熱仮寒)→ 冷やす治療(白虎湯)
※ 桂枝湯のバリエーションとしての「桂枝加黄耆湯」
アトピー性皮膚炎は陽証で虚証が多いことから、陽証で虚証の桂枝加黄耆湯という処方が有用であることを山田光胤が報告しました。実際には桂枝加黄耆湯に荊芥2g、樸樕3gを加味する。
(山田光胤)陰陽虚実に基づく皮膚疾患の治療(漢方の臨床、42巻2号、10P、1995年)
脱汗(1-20)
太陽病に発汗剤を用いたところ「大量に発汗して汗が止まらなくなった」状態を脱汗と言う。脱汗に用いられる処方には桂枝加附子湯(軽症)、真武湯(中等症)、茯苓四逆湯(重症)、茯苓甘草湯(蛇管に動悸を伴うとき)などがある。
脱汗→ 陰証→ (軽症)桂枝加附子湯、(中等症)真武湯、(重症)茯苓四逆湯
→ 陽証→ (動悸を伴う)茯苓甘草湯
桂枝麻黄各半湯の要点(1-23)
【自覚症状】発汗、頭痛、悪風、発熱、熱多寒少、身痒し
【他覚症状】浮脈、顔色が赤い
<類似薬の比較>
汗 | 口渇 |
脈 |
備考 | |
桂枝麻黄各半湯 | + | ー |
浮やや有力 |
桂枝湯と麻黄湯の中間 |
桂枝二麻黄一湯 | ++ | ー |
浮やや有力 |
桂枝麻黄各半湯より発汗多い |
桂枝二越婢一湯 | + | + | 浮やや有力 | 大青竜湯の虚証 |
白虎加人参湯の要点(1-26)
桂枝湯を服用した後、大量の汗が出で、ひどく咽が渇いて病気が治らない、脈が洪大(脈が来るときは大きく盛んであり、脈の去るときは衰えた感じの脈・・・『診家正眼』より)の者は白虎加人参湯の主治。
陽明病の薬であり体中に熱の邪気が充満した状態に使用する。一般に四大証(大熱、大汗、大渇、脈洪大)として要約される。
麻黄湯の要点(2-35)
【自覚症状】頭痛、発熱、悪寒、無感、喘鳴
【他覚症状】浮脈、緊脈(有力で絞った鋼のようである)
小柴胡湯の要点(2-37)
【自覚症状】頭痛、発熱、吐き気、往来寒熱、めまい
【他覚症状】弦脈(琴の弦を按ずるような脈)、胸脇苦満
大青竜湯の要点(2-38)・・・麻黄湯証+煩躁
【自覚症状】頭痛、発熱、悪寒、無感、口渇、煩躁
【他覚症状】浮脈、緊脈
太陽病の薬(大青竜湯 麻黄湯 葛根湯)の比較(2-39)
麻黄 (両) |
桂枝 (両) |
甘草 (両) |
杏仁 (枚) |
生姜 (両) |
大棗 (枚) |
石膏 |
葛根 (両) |
芍薬 (両) |
脈 | 汗 | 症状 | |
大青竜湯 | 6 | 2 | 2 | 40 | 3 |
10 |
𨿸子 | 浮緊 | 無 |
煩躁、口渇 |
||
麻黄湯 | 3 | 2 |
1 | 70 | 浮緊 |
無 |
喘 |
|||||
葛根湯 | 3 | 2 | 2 | 3 | 12 | 4 | 2 | 浮 | 無 | 項背強急 |
<発汗の強さ>
大青竜湯>麻黄湯>葛根湯>桂枝二越婢一湯>桂枝麻黄各半湯>桂枝二麻黄一湯>桂枝湯
小青竜湯の要点(2-41)
【自覚症状】頭痛、発熱、悪風、咳、喘鳴、乾嘔(からえずき)
【他覚症状】[腹証]両腹直筋の攣急(上部)、心下の水気(水毒)による振水音があるが、ない場合も多い
■ 食物養生法の基本
日常の飲食物の東洋医学的な性質・役割一覧表。
温:体を温める
寒:体を冷やす
平:どちらでもない
【果物】
果物 | 性質 | 作用 |
リンゴ | 寒 | 消化作用促進、下痢止め、体を潤す |
ナシ | 寒 | 肺を潤し咳を止める |
バナナ | 寒 | 便秘によい |
スイカ | 寒 | 口渇を止める、利尿し浮腫の緩和(冷え症の食べ過ぎには注意) |
ビワ | 寒 | 咳を止める |
柿 | 寒 | 口渇や咳、下痢を止める(食べ過ぎで便秘になる) |
柿のへた | 平 | しゃっくりを止める |
ブドウ | 平 | 下痢止(便秘の人は注意) |
ギンナン | 平 | 咳・頻尿を止める(毒性があり食べ過ぎに注意、食べ過ぎで便秘になりやすい) |
ミカン | 温 | 消化作用促進、咳や痰を止める、とくに皮がよい |
アンズ | 温 | 血を巡らせる、咳を止める |
レモン | 温 | 胃痛・腹痛を止める |
クルミ | 温 | 咳を止める |
ナツメ | 温 | 体を潤す、こころを穏やかにする、便秘の改善 |
【野菜】
野菜 | 性質 | 作用 |
小豆 | 寒 | 利尿、可能を止める、ニキビによい |
ユリの根 | 寒 | 咳止め、こころを穏やかにする |
梅 | 平 | 汗止め、下痢止め、喉の渇きを抑える、夏負け防止 |
ダイコン | 平 | 消化作用触診、咳や痰を止める |
ヤマイモ | 平 | 消化促進、下痢・咳止め、活力をつける |
ゴマ | 平 | 体を潤す、視力促進、乾燥性皮膚そう痒症の緩和、便秘の改善 |
ハスの根 | 平 | 止血作用 |
ハスの実 | 平 | 食欲不振・下痢・頻尿の改善、こころを穏やかにする |
ウド | 温 | 関節痛を止める |
生姜 | 温 | 消化作用促進、嘔吐を止める、寒性のカゼの初期に使用 |
紫蘇 | 温 | 消化作用促進、嘔吐を止める、寒性のカゼの初期に使用 |
サンショウ | 温 | 消化作用促進、冷えによる腹痛・下痢・便秘の緩和、腸の寄生虫予防 |
ネギ(白色部) | 温 | 寒性のカゼの初期の緩和、咳・喉の痛み・下痢の改善、こころを安定させる |
ラッキョウ | 温 | 狭心症や喘息の胸痛の緩和 |
ニラ | 温 | 活力をつける、下痢を止める |
【穀物】
穀物 | 性質 | 作用 |
小麦 | 寒 | こころを落ち着かせる、汗を止める |
納豆 | 寒 | 熱を冷ます、胸のもやもや感やもだえ感を除く |
玄米 | 平 | 活力をつける(胃にもたれやすい、下痢しやすい) |
大麦(麦芽) | 平 | 消化促進、乳汁分泌抑制、利尿 |
もち米 | 温 | 活力を出す、乳汁分泌促進(胃にもたれやすい、ニキビを悪化させやすい) |
【肉・魚介(昆虫)類】
肉・魚介類 | 性質 | 作用 |
馬肉 | 寒 | |
昆布 | 寒 | 便秘の緩和 |
カキ肉 | 寒 | 活力をつける、こころを穏やかにする、不眠の緩和 |
鯉 | 平 | 利尿、浮腫・腹水の改善、乳汁分泌促進 |
牛肉・豚肉 | 平 | 活力をつける |
ニワトリの砂肝 | 平 | 消化促進、頻尿緩和 |
ハチミツ | 平 | 肺を潤し咳を止める、便秘の改善、活力をつける、解毒作用 |
羊肉 | 温 | 活力をつける |
イナゴ | 温 | 咳や小児などのけいれんの緩和 |
【酒類】
酒類 | 性質 | 作用 |
ビール | 平 | 食欲増進、利尿、体を冷やす |
蒸留酒 | 平 | 醸造酒に比べ体を冷やす |
酢 | 平 | 殺菌防腐作用、食欲増進、こころを穏やかにする、止血・解毒作用 |
酒類の一般作用 | 温 | 気血を巡らせる、寒さを除き約力を高める、熱がり体質は薬と併用しない |
日本酒 | 温 | 活力を高め、体を温める |
■ よくみられる症状の食物養生法
症状・病態 | 食物養生法 |
カゼの初期 |
①ネギの白根・ニンニク・みそ・梅干し・生姜を熱湯に入れて飲む ②ネギの白根・生姜・ミカンの皮・鰹節・梅干しを熱湯に入れて飲む |
咳 | ナシ、柿、ビワ、ミカンの皮、ギンナン、ハチミツ、松の実などがよい |
便秘 | バナナ、アロエ、玄米、小豆、イチジク、ハチミツ、ゴボウなどがよい |
下痢 | ギンナン、リンゴ、ブドウ、かたくり粉、ザクロ、梅、ゲンノショウコなどがよい |
冷え症 |
(よい食品)ショウガ、羊肉、ニラ、アンズ、ラッキョウ、紫蘇、ナツメなど (悪い食品)果物の多く(柿・ビワ・スイカなど)、生野菜、玄米、海藻、ビール、馬肉など |
眼の疲れ | クコ茶、ハブ茶などがよい |
鼻づまり | ネギ、ダイコンなどがよい |
乳汁分泌促進 | 鯉、小豆、もち米などがよい |
■ 健康的な食事の原則(基本食)
分類 | 内容 |
タンパク質 | 大豆など植物や魚介類・鳥肉を主とする。豚・牛などは少なめとする。 |
脂肪 | 植物性の脂肪を心がける |
主食 | 未精白米がよい。もち米は日常食べない。玄米は向き不向きがある。 |
野菜 | 緑黄色野菜を主とする。果物は季節のものを摂るが食べ過ぎないように注意。海藻類は多く摂る。 |
その他 | 甘いもの、辛いもの、塩分、アルコールは控えめにする。 |
■ 中国医学はいかにつくられたか(山田慶兒著)より
(つぶやき)新書版の啓蒙書ですが、内容が盛りだくさんで消化不良を起こしました。中国の歴史年表を頭に入れておかなければ流れを理解することは不可能。
□ 殷(紀元前1600~1200あるいは1100年)
□ 周(紀元前1200あるいは1100年~紀元前256年)
□ 春秋(紀元前770~403年)・・・扁鵲の伝説(司馬遷『史記』)
□ 戦国(紀元前403~221年)・・・この頃、陰陽五行説が成立
□ 秦(紀元前221~207年)
□ 漢
・前漢(紀元前206~紀元後8年)・・・この頃、黄帝内経の原書が成立
・新(紀元後8~23年)
・後漢(紀元後25~220年)・・・神農本草経の原書が成立、華佗(後漢末;109?-207?)の伝説、張仲景が傷寒論、金匱要略の原書を著す
□ 三国(220~280年)
□ 晋(265~420年)
□ 南北朝(439~589)・・・460年:小品方(陳延之)
□ 隋(581~618)・・・610年:諸病源候論(巣元方:そう げんぽう)、650年:千金方(孫思邈(そんしばく)、
□ 唐(618~907)・・・752年:外台秘要方(王翻:おうとう)
中国医学は戦国時代に誕生し、後漢末までのおよそ5世紀ほどの間に理論と技術の範型を造り上げ、独自の医学として確立した。それからの歴史は、一面から云えば、古典の凝縮された内容を読み解き、解きほぐし、繰り広げてゆく過程であった。解読することがそのまま創造することであった。
時代 | 年代 | 年 | 事項 | 日本での出来事 |
殷 |
紀元前1600~1200 (1100年?) |
|||
周 |
紀元前1200(1100年?) ~紀元前256年 |
|||
春秋 | 紀元前770~403年 | 扁鵲の伝説(司馬遷『史記』) | ||
戦国 | 紀元前403~221年 | この頃、陰陽五行説が成立 | ||
秦 | 紀元前221~207年 | |||
漢 |
前漢: 紀元前206~紀元後8年 |
180 163 |
この頃、『黄帝内経』の原書が成立 淳于意、古医書を授かる 馬王堆医書被葬 |
|
新:紀元後8~23年 |
||||
後漢: 紀元後25~220年 |
80
210
|
『漢書』芸文志:『黄帝内経』十八巻 『神農本草経』の原書が成立、 華佗(後漢末;109?-207?)の伝説、 張仲景が『傷寒論』『金匱要略』の原書を著す |
||
三国 | 220~280年 | 236年:邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使者を送る | ||
晋 | 265~420年 | |||
南北朝 | 439~589年 | 460年 | 『小品方』(陳延之) | |
隋 |
581~618年 |
610年 650年 |
『諸病源候論』(巣元方:そう げんぽう) 『千金方』(孫思邈(そんしばく) |
600年:遣隋使 |
唐 | 618~907年 |
662-670 752年 |
楊上善『太素』 『外台秘要方』(王翻:おうとう) |
630年:第一回遣唐使 754年:鑑真和尚来朝『太素』の伝来? |
五代 |
|
|||
北宋 |
1068 1092 |
新校訂『素問』 高麗『黄帝針経』献本 |
||
南宋 | ||||
元 | ||||
明 |
漢代が中国医学の確立期
中国医学の三つの古典、『内経』と『難経』と『本草』は、神農か黄帝の名をいただいている。人類史が始まって未だほど遠くない太古の昔、二人の文化英雄の手によって中国医学は創始された、というのが古代人の構想なのだ。いうまでもなく、これらの古典の本当の著者は名を残さなかった多くの医師や採薬者達であり、実際にはいずれも漢代の著作であった。これに後漢末の実在の人、張仲景の手に成る『傷寒雑病論』を加えれば、中国医学の基礎をすえた古典はすべて揃う。この四つの古典によって、今日まで二千年にわたり連綿と維持されている中国医学の範型は打ち立てられた。
鍼灸療法の起源
甲骨文を通して浮かび上がってくる殷代の医学は、今日私たちが中国医学と呼んでいるものではなかったし、それを予感させるものさえどこにもなかった。鍼灸の技術の萌芽すらなかった。
春秋時代には諸侯が病気になると、神々の祟りだとして、丁重な祭りを行った。
中国医学のはじめを飾る二つの古典『内経』と『難経』は、鍼灸医学とりわけ鍼医学と医学理論の書である。『帝王世紀』の黄帝説話の中にも的確に言明されている。黄帝は岐伯と雷公に命じて「経脈を論じ」させ、「九針を制せしめ」て、『難経』と『黄帝内経』をつくらせた、と。
その医学大系の確信は脈の方法と理論にあった。見薬による診断と脈にそってならぶ効果的な治療点への鍼や艾(もぐさ)による治療の方法。その方法を裏づける生理と病理の理論。脈の方法と理論を発展させたのは針灸療法、中でも鍼療法に携わる医師達であったこと、いいかえれば、中国医学を作り出させることになったものは鍼灸療法であることを『内経』と『難経』は象徴的に物語っている。
鍼灸はきわめて特異な両方であり、これに類するものはほかの古代文化には全く見いだすことができない。
『左伝』にみる中国医学への胎動
※ 『左伝』(=春秋左氏伝)は中国の最初の歴史書。ほぼ春秋時代をおおう魯国の年代記『春秋』に詳しい歴史記述を交えて注釈した書。戦国初期の前386年頃までに作られたと推測されている。
前六世紀には中国医学への胎動が始まっていた。それを象徴するのが医和の挿話である。医和は晋の平公との対話の中で、
「天には六気があり、地に降ると生じて五味となり、発して五色となり、徴(きざ)して五声となりますが、それらも度を過ごしますと六疾を生じます。六気とは陰・陽・風・雨・晦(かい)・明をいいまして、それが一日の四つの時間帯に分かれ、物事の五つの節目を整えます。その限度を超えますと、禍をまねきます。陰が度を過ぎれば寒の疾、陽が度を過ぎれば熱の疾、風が度を過ぎれば末(四肢)の疾、雨が度を過ぎれば腹の疾、晦が度を過ぎれば惑の疾、明が度を過ぎれば心の疾になります。」
と述べている。その意は、
「自然には気と総称される六つの成分があり、その作用によって様々な現象が起こる。人体においては、六つの成分のあいだに量的な均衡が成り立っている限り、生命はそこなわれない。しかし、外界(男女間の意)相互作用を通してひとつあるいはそれ以上の成分の量が限度を超えて増え、保たれていた均衡が破れると、病気になる。その場合どんな病気が生じるかは、過剰になった成分の組み合わせによって決まる。」
医和のこの病因論は、病気という個別的な現象を、六気の状態の変化という一般的な要因によって説明しようとしており、そこにはまぎれもない病理学の芽生えがある。
ここに『気』という概念が登場するが、まだ後世の気の病理学と直接にはつながらない。病因として気の過剰だけが考えられ、不足は問われていないからである。後世の病理学では、気の過剰を意味する実と不足を意味する虚とがつねに対概念として用いられ、症状も実と虚に分けられる。なかでも重視されたのは、虚の病であった。のちにはそれは人々の間に虚証恐怖ともいうべき一種の強迫観念を植えつけ、人参信仰から薬膳愛好にいたる、さまざまな滋養強壮剤への執着を生み出したのである。
出土医書による分析〜灸法・砭石法・鍼法と経絡の概念
※ 出土医書:1973年に湖南省長沙市の馬王堆三号漢墓から出土した医書。前186年に埋葬された人物の歯かであり、今日までに整理・公表された医書は15種(絹・竹簡・木簡)。
出土医書には灸療法の記載はあるが鍼療法はない。灸療法については戦国中期(前300年前後)の確実な記載が『孟子』のなかに残されているが、鍼療法に関しては前漢初期まで信憑性のある記述はない。
一方で、灸療法と砭石(へんせき:石で作られた針)療法から鍼療法へという展開の道筋を示唆する内容がみてとれる。
馬王堆・張家山漢墓の出土医書は、戦国時代後期、全酸性期の中葉頃には中国医学の原型が生まれていたことを初めて立証した。薬物療法を中心とする臨床医学はまだ対症療法の段階にとどまっていたが、灸法と砭法、そして養生の領域では、診断と治療の原則の探求や理論的な基礎漬けへの努力が始まっていた。灸法が生み出した脈の方法と理論、砭法が作り出した瀉血・切開の道具と方法、この二つを継承し統合して鍼療法の技術が出現する日は目前に迫っている。中国医学は鍼法の出現と共に爆発的な展開をみせることになる。
◇ 「十一脈灸経」より〜経絡の概念の発生
一般に中国医学の診断と治療の基礎になっているのは、それぞれ手と足にある太陽・陽明・少陽・太陰・少陰・厥陰の六脈、合わせて十二の経脈である。経(たて)糸という言葉があるように、経脈とは縦の脈を意味し、体を縦に走る主要な脈を指す。それに対して、経脈から分かれて横に出ている支脈を絡脈といい、二つを合わせて経絡と称する。経絡の理論によれば、それぞれの経脈は特定の複数の症候および病気と結びついており、ある経脈が「動く」、すなわち拍動に乱れが生じたときは、その脈に属する症候が現れ、病気が発生する。それを脈が「病を主(つかさど)る」と云う。石は脈を取り、どの経脈にどんな乱れが生じているかを知り、病気を判断して治療を施す。鍼灸療法であれば、その経脈や絡脈に鍼を売ったり灸をすえたりして、脈の乱れを正常に戻す、少なくとも理屈としてはそういうことになる。
漢代に完成した経脈の体系と針灸治療の原則は『黄帝内経』(霊枢)の「経脈」篇として伝えられてきた。発見された「十一脈灸経」こそ、実は「経脈」篇の祖型だったのである。「十一脈灸経」には、手の厥陰脈を除く十一の経絡と症候と病気、それに灸による治療の原則が記載されている。
「十一脈灸経」の成書以後に獲得された経験と知識と技術を取り入れて、複数の人がそれに加筆してゆき手の厥陰脈の項を補い、全体の分量を約三倍に膨らませて、十二経脈の記述として完成させたのが黄帝内経経脈篇に他ならない。
「十一脈灸経」には脈の経絡とその病だけでなく、診断法も付記されている。葉脈の病よりも陰脈の病の方が重いという考え方があらわれており(「陰陽経」「足臂(ひ)経」)、陽脈は正脈、陰脈は死脈、陽病は軽く陰病は重いというこの考え方は(「陰陽脈死候」)、やはて病は陽から陰へ進行するという考え方を導くことになる。
◇ 虚実の概念の発生
「十一脈灸経」の「陰陽脈死候」の項の記述に脈診を治療法に橋渡しする原則が示されている;
「脈が盈(み)ちているときは虚にする治療をほどこし、虚であるときは実にする治療をほどこし、静かなときは治療を見合わせる」
ここに初めて虚実の対概念と、虚なら実西実なら虚にするという治療の原則とが、明確に表現されたのである。もう一つの出土医書「脈法」は、この原則にやや異なった表現を当てた。
「病を治療するときは、余っているものを取り除き、足りないものを益(ふ)やす。」
この言葉は『老子』第七十七章の「天の道は、余有るを損じて、足らざるを補う」に基づいている。少しずつ形づくられてゆく中国医学の理論を思想的に導いていったのは、道家の哲学であった。『黄帝内経』はやがてこの原則を虚実・補瀉の概念を用いて、
「実の状態にあるときは瀉の治療をほどこし、虚の状態にあるときは補の治療をほどこす。」
と定式化し、中国医学を貫く治療の大原則を成立させていく。
◇ 脈象を見る
『黄帝内経』には脈を診るいろいろなやり方が記載されており、中国医学を作り出していった人々の思考の記録と云える。
その中に脈象(脈拍の波動の形や強弱などから抽出した脈動の類型)を診る方法がある。最終的には手首の橈骨の突起のあたりに三本の指を当てて脈を取る方法が一般的となるがそこにたどり着くまでには種々の方法が試みられた。
出土医書の「脈法」では三対(のちには十四対まで増える)の脈象を手足のそれぞれ二箇所で相脈(=診脈)する方法であり、これはのちに頭・手・足(三部)の各三箇所、合わせて九箇所の拍動する場所(九候)で脈を取る方法へと発展する(『黄帝内経』の三部九候法の祖型)。
◇ 灸法と砭法
出土医書「脈法」に記述されている灸法と砭法は、鍼法の起源の問題に対して解決の方向を示唆している。『黄帝内経』(霊枢・官鍼)に「脈法」の灸法と砭法に関する一節を祖型とする文章があるが、そこでは重要な言葉が置き換えられているのを見いだすことができる。
(例)膿が病に、砭が鍼に
つまり、砭法の原則が鍼法の原則へと組み替えられているのだ。このことより、鍼法が砭法から発展してきたこと、刺法用の鍼は砭石すなわち瀉血・切開用のメスの進化したもの、もっと正確に云えば、砭石に想を得て発明されたものであることを高い蓋然性をもって推論できる。事実、九鍼(九種類の鍼)の中には瀉血・切開に用いるものが含まれており、それらは砭石の原型をとどめていると考えてよい。
◇ 鍼治療への道筋
出土医書「五十二病方」には今日で云う内科・精神科・皮膚科・外科・婦人科・小児科にわたる五十二の病気の処方・治療法が収められている。特徴として、
1.記述はすべて対症療法であり、症状の簡単な記載は別として、治療の原則や理論は一切無い
2.呪術療法は全処方の約17%を占めているが、適用される病気は極限られている。
つまり、治せない病と降りかかった病以外は、すでに呪術を必要としていなかった。
司馬遷『史記』に登場する扁鵲と倉公
◇ 扁鵲・・・後世に神医と称えられた伝説の名医(400年生きた?)
司馬遷は今日の脈診法は扁鵲に由来すると記しているが、時代が合わない。他の書物では化膿した悪性の腫れ物を砭石を用いて切除する外科の名医として描かれており、この方が時代が合う。
◇ 倉公・・・文帝の時代に活躍した医師
大倉公淳于意は診療カルテ「診藉」を用意していた。それを分析すると以下のことがわかる。診断はもっぱら脈診によっており、脈診を重んずる傾向が極端なまでに著しい。それは脈象による病の診断が新しい技術であり、しかもきわめて信頼性が高い技術と見なされていたことを物語っている。鍼灸治療と共に発展してきた脈診がそれから独立し、薬物療法との結びつきを強めている。いずれその洗浄に『傷寒雑病論』が姿を現すことになる
『黄帝内経』ー中国医学の成立
『黄帝内経』は中国医学の最古の古典であり、『素問』および『霊枢』、そして不完全ではあるが『太素』という二系統のテキストとして今日に伝えられた。
『黄帝内経』に集められた文章は、どの点から見ても、一概には論じられない多様さに充ちている。著作年代はおそらく紀元前後の二百年に及んでいよう。その中には概説あり、評論あり、専論あり、講義用テキストあり、注釈あり、解説あり、書かれている理論や技術も多岐にわたる。
テキストの示すこの混沌たる様相は、『黄帝内経』が形成期の中国医学の混沌をそのまま抱擁していることの、まぎれもない証である。
文章には問答形式を取るものと論述形式によるものとがある。
問答形式では、問者-答者の組み合わせに雷公-黄帝、黄帝-少師、黄帝-伯高、黄帝-少兪、黄帝-岐伯の五つがあり、これはそれぞれ答者を祖と仰ぐ五つのグループが存在していた(黄帝派、少師派、・・・)ことを示している。黄帝派の登場(前漢)と共に黄帝学派の歴史が始まるのだが、つづいて各派が表舞台に現れては消えていく。新代に活躍したのが伯高派、少兪・岐伯派が後漢に当たる。そして最後に多様な展開を遂げてきた理論と技術に一転して統合の方向が見えてきたとき、医師達は権威の名を借りて語ることをやめ、文章表現も問答形式に変わって論述形式が支配的となる。
『黄帝内経』はなによりもまず鍼灸医学の書であった。その治療法は鍼法を主体とし、補助的に灸法を用い、鍼灸が使えない場合や併用するのが効果的な場合に罨法や薬などを用いるというものであった。黄帝学派の医師達は鍼灸療法を薬物療法に対置していた。『黄帝内経』に出てくる薬の名は六種に過ぎない。
灸法と砭法を継承し統合して生まれた鍼法は、医療の分野における大きな技術革新であった。鍼法派は「薬も使わず、手術もせず、小さな鍼だけですべての病気を治してみせよう」と宣言した。
鍼灸療法が中国医学にもたらしたもの;
1.経絡の概念
・・・身体を縦に走る十二経脈と経脈から枝わかれして横に広がり、他の経脈からの分枝と結びつき、経脈官を連絡する絡脈。経脈は一つの脈の終点が他の脈の視点と成っており、全体として一種のいわば大循環の経絡を作っている。
経絡説は生理学と病理学の基礎であり、脈論こそが中国医学の理論的な核をなすものであった。
2.脈診法
・・・拍動の波の形と強弱を類型化した脈象は、人体の生理学的および病理学的な状態、特に目に見える症状からはわからない内部の状態を表現しているものとみなされる。
中国医学の診断法である四診(望・聞・問・切)の「切」の中に脈診は位置付けられ、脈法は『難経』と『脈経』によって完成される。
3.経脈病の考え方
・・・経脈の拍動によって病気を診断できると見なすのは、ここの病気はある特定の脈と密接に結びついている、ある病気はある経脈に属しているという考え方がその根底に横たわっている。
病気が経脈に属するとはどういうことか。
十二の経脈は全身を走り、臓腑をはじめすべての器官を経過する。従って、一つの経絡系が覆う区域をその流域と呼ぶならば、全身は十二の流域によって覆い尽くされる。今ある流域になにか病患が発生したとしよう。するとその時には、流域を支配する経脈の拍動に乱れが生じている。病患と脈の乱れは両方が呼応し合う関係にあり一般に「感応」と呼ばれる。
そして後に成って『傷寒論』の六経弁証、太陽・陽明・少陽・退院・少陰・厥陰の六経脈の脈証を弁別し、それに基づいて治療を施すという、臨床医学の基本となってゆく診療方法に結実することに成る。
4.つぼの発見
・・・当時、脈は血管を指していた。脈の乱れと病が乾嘔関係にあるならば、その乱れを正常に戻すことによって病を治すことができるだろうと考えた。出土医書には乱れた脈の部位に灸をすえたり、砭石を当てて瀉血した記録がある。脈絡を指す場合は瀉血を表す言葉として刺絡という語が生まれた。
中国医学の場合は西洋医学と違い、瀉血と云ってもふつうはごく少量であり、それもあくまで血に余りがある、脈が実であり盛んである場合に限られた。
同じく脈を刺しても、血の虚実の状態によって補と瀉という、まったく逆の効果を生む手法を発達させたのである。そして鍼法の真の発明は、針を刺す場所を、出土医書ではごく例外的であった脈の外に、しかも全身に広げたところにある。このようにして効果的な治療点としてのツボが発見され確定されていったのであった。
つぼは血管としての経脈と密接な関係があり、あるいは経脈の上に、あるいは経脈を外した場所に位置し、その経脈の経穴と呼ばれ、また経脈の「気の発する所」として気穴とも云われた。
経絡とは本来血管系ないし循環系を意味する概念であり、経穴 脈としての経脈は、それを治療の視点から横滑りさせた派生的な概念だと理解すべきである。
薬物学の出発〜『神農本草経』
「本草」という言葉が初めて出てくるのは前漢末(『漢書』)であり、本草書が初めて確認されるのは後漢末になってからである。後漢時代には数多くの本草書があらわれたが、中でも権威を与えられていたのは「神農」であった。それらをまとめて校正し『神農本草経』として著したのが陶弘景であり、今日私たちが手にする『神農本草経』は『集注本草』と通称される陶弘景の著作の中に、いわゆる本経文として収められているものである。
『神農本草経』を特徴付けているのは、その独特の分類と記述である。
まず分類では上・中・下品(あるいは上薬・中薬・下薬)の三品分類を取る。この分類は薬物の作用に基づいており、その中に亜から締め調剤の原則を含む形になっていて、書の構成も上・中・下経の三巻に分かれている。
上品・中品・下品と調剤法
・上薬百二十種を君薬という。寿命を養うのが本来の働きであり、天の働きに照応している。独が無く、たくさん服用したり長く服用したりしても、人をそこなわない。身体を軽く史記を増やし、老化せずに長生きしたい人は、上経に服用する。
・中薬百二十種を臣薬という。生命を養うのが本来の働きであり、人の働きに照応している。独のあるもの独のないものがあり、それを適宜処理する。病気が進まないように試、虚弱な体質を補おうとする人は、中経にしたがって服用する。
・下薬百二十五種を佐使薬という。病気を治すのが本来の働きであり、地の働きに照応している。独が多く、長くは服用できない。臓腑にできた塊をなくし疾病を癒そうとする人は、下経に従って服用する。
養命の上品、養生の中品、治病の下品という三品分類は、神仙道教の影響を強く受けている。
上・中・下薬を君・臣・佐使と呼ぶのは、薬物の配合の原則に関わりがある。薬物には君・臣・佐・使があり、それをすべて一緒に用いる。調合するには1君・2臣・3佐・5使を用いるのがよい。また、1君・3臣・9佐使とするのもよい。
体系化への道〜『難経』
『黄帝内経』は形成されつつあった中国医学の軌跡であり、未完のところがたくさんあるにしろ鍼灸医学と医学理論の両面に渡って大きな達成を示していた。しかし同時に、そこには創成期につきものの混乱があり、様々な技術や理論が整理されたり秩序立てられたりすることなく、まして関係づけられたり統合されたりすることなく、ほとんど雑然と投げ出されていた。
その当時、鍼灸療法が薬物療法と併称されるほど評価を得ていたことがうかがわれ鍼灸医学の体系化が時代の要請であり、それに応えたのが『黄帝八十一難経』、ふつう『難経』と略称される書であった(難とは疑いを質すこと)。
その特徴は、
1.取り扱う範囲を鍼法に限定:薬法はいうに及ばず、鍼法と車の両輪とも云うべき灸法までも排除した。
2.まず照準を脈法と脈論に定めて全体の半分余りを割いてそれを論じた。
診脈の場所を手首の寸口部の1箇所にしぼった。脈とは臓腑を通り経脈を経て全身を循環する衛気の運動に他ならず、だからこそ寸口部ですべての経脈の異常を見ることができる、と説明した。十二経脈が一つに繋がって大循環の経路をなすという思想は『黄帝内経』にもあったが、まだ思想にとどまり、生理学説としては未完のまま終わっていた。
『難経』は診脈の場所を寸口部に絞っただけではない。『黄帝内経』では寸と尺の2箇所でとった脈に、さらにもう一つ関を加えた。寸・関・尺の三つの場所に三本の指を当てるやり方は、今日まで用いられている。
三部九候脈法の変遷
『黄帝内経』では、頭・手・足のそれぞれ三箇所で脈を取る方法が三部九候であったが、『難経』では頭・手・足を寸・関・尺に転位し、に三つの拍動する場所を三通りのおさえ方に置き換えてしまったのである(!?)。ともあれ、こして三部九候は寸関尺脈法に吸収され統合された。
四診の登場
診断補として望・聞・問・切の四診を初めて挙げたのは『難経』である。
【望】・・・その五色を見て、以てその病を別つ
【聞】・・・その五音を聞き、以てその病を別つ
【問】・・・その欲するところの五味を問い、以てその病の起こるところ在るところを知る
【切】・・・その寸口を診、その虚実を視て、その病と、病いずれの臓腑に在る、とを知る
ちなみに、ここにもその片鱗がのぞいているように、『難経』は五行説に基づいて論を進める傾向が強い。
刺法の大胆な変革
『難経』は刺法において、三百六十五穴といわれるツボの中から五兪穴六十六だけを選び、その他はすべて捨てて論じた。
もう一つの改革は、補瀉の技法であった。
患者の呼吸を伺って針を刺したり抜いたりする『黄帝内経』のやり方を退けたのである。
『難経』は脈法と脈論を確立することにより、中国医学を強固な℃台の上に置いた。それは長く中国医学の範型となった。
臨床医学の確立〜『傷寒論』
後漢末の張仲景の著作であり、中国医学の歴史において、いくつかの意味で画期的なできごとであった。なお、今日使われている『傷寒論』のテキストは、金の成無己が宋刊本に基づいて校勘し注釈した『注解傷寒論』である。
1.著者に実在した個人の名を持つ最初の医書であった。
『黄帝内経』は多くの著者の文章を集めた論集であり、ここの文章に著者の名はない。『難経』はおそらく個人の著作だが、著者は伝説的な名医の名を借りて、その背後に姿を隠している。
2.何らかの原理に基づいて構成された、最初の医学書であった。
元のテキストは伝わっていないので推測にとどまる。それまでの臨床医学書は対症療法の雑然とした集成に過ぎなかった。張仲景は外科手術と呪術療法を除いて、臨床医学書を体系的に構成する原理を見いだしたと想像される。
3.内服薬、それも湯液(煎じ薬)を中心とする療法と薬の処方を集成した。
薬物の他にも鍼灸などいろいろな療法を取り上げているが、その圧倒的な部分を占めるのは湯法である。秦漢時代に入ってからさかんに用いられるようになった湯法の製菓が、この書には結晶している。
4.診断法と薬物を主体とする治療法とを緊密に結びつけた、最初の臨床医学書であった。
張仲景は『素問』の「熱論篇」にみる傷寒、すなわち熱を伴う感染症の記述を基礎に、傷寒に罹った場合の三陰三陽の病の脈象や症候を類型化して記載し、その一つ一つに対して施すべき薬や処置を対応させたのである。
『傷寒論』の三つの要素
1.脈論及び傷寒の病理学と診断法。
『傷寒論』以前に、傷寒の基礎は『素問』の「熱論篇」に与えられており、『難経』も傷寒を論じている。『傷寒論』がその展開であったのは云うまでもない。
2.傷寒の病の脈証(脈象と症候)と治療法。
張仲景の最大の功績。
3.傷寒以外のいわゆる雑病の脈証と治療法。
傷寒に用いられた診療方法がその他の病気にも適用できることを示して、臨床医学全体のあり方を方向付けた。
1と2を取り扱ったのが『傷寒論』、3は『金匱要略』の腫大である。
研究の過程で顕在化した「六経弁証」
六経弁証はもともと『傷寒論』に内包されていた。『傷寒論』研究者達はその過程で方法としての六経弁証を発見することになる。臨床経験を重ねるうちに、人々は三陰三陽病の脈証群と治療法群との間に対応関係があるのに気づき、そのような群を可不可の分類の中から析出して、三陰三陽の枠組みの中に移し替え、条文の新しい配列を模索し始めた。その完成は14世紀以降である。研究努力は六経弁証が少しずつ自然に析出されていく過程であったと捉えることもできる。
「八鋼弁証」の登場
病証の弁別に使われる概念;寒熱・虚実・表裏・陰陽
はじめ16世紀末に提唱されるが、それを確立させたのは清の程国彭(ていこくほう)の『医学心悟』(1732年)である。
このいわゆる八綱弁証により、『傷寒論』の六経弁証はすべての疾病をひろく視野に収めた弁証論治へと飛躍することになる。現代中国医学の起点である。
脈証ー薬名証ー薬の三層構造
脈証の類型と薬の類型との対応関係は、『傷寒論』の研究者達が脈証を薬名によって呼んだほど整合的であった。これらの証のそれぞれに、さらに多くの薬の変形が属している。
要するに、脈証ー薬名証ー薬の三層からなる織物により、少なくとも理論的には、信仰してゆく『傷寒論』の病のあらゆる局面が覆い尽くされ、的確な診断と治療が可能になる。この脈証=薬の織物の全体が、診察方法としての六経弁証なのである。
専数百年の歳月をかけてゆっくりと六経弁証や八法を顕在化させ、医学を新しい段階へと突入させた『傷寒論』は、恐るべき潜在力を秘めた書であったと云わなければならない。
江戸時代の医師達が見ていた『傷寒論』の風景は一般に同時代の中国の医師達が見ていた風景とは大きく異なっていた。その違いは今日の中国医学と漢方の違いに影を落としている。
■ 漢方の歴史(小曽戸洋著)より
大修館書店(1999年)
馬王堆から出土した漢方を手に握った貴婦人
1971年に中国湖南省長沙の馬王堆の墳丘から前漢初期の3つの墓が見つかった。その三号墓からは紀元前の医学書が大量に出土した。また一号墓から出現した死語直後かと見まごうばかりの生々しい婦人の遺体は前代未聞の大発見であった。
婦人の遺体は無菌状態の水に浸っていたため、いわばホルマリン漬けのように皮膚は瑞々しく、関節は自由に動かすことができた。身長154cm、体重34.3kg(生前の推定体重は70kgと肥満体)、年齢は50歳前後。病理解剖の結果次のような病理所見が明らかになった;
①全身の動脈硬化、②心筋梗塞、③多発性胆石症、④胆嚢の先天的横隔畸形、⑤結核感染の病痕、⑥住血吸虫感染、⑦ギョウ虫、鞭虫の感染、⑧椎間板ヘルニア、⑨右腕骨折の変形癒合、
そして婦人は手に絹袋を握っておりその中には漢方薬が入っていた。鑑定の結果、桂皮・高良薑・薑(きょう)・藁本・杜衡・茅香・花椒・辛夷・佩蘭の九種が出てきた。
漢方の三大古典
殷・周・春秋・戦国時代を通じて、膨大な経験と知識の集積の元に形成されていった中国医学は漢代になり体系化され三つの古典に集約された。
・『神農本草経』・・・薬物学書
・『黄帝内経』・・・医学理論と物理療法(針灸術)。『素問』『霊枢』『太素』『明堂』からなる。
・『張仲景方』・・・医方書。『傷寒論』『金匱玉函経』『金匱要略』からなる。
極論すれば、以降2000年近くに及ぶ漢方医学の歴史は、これらの晴天をいかに解釈し、位置付け、応用するかの延長線上で捉えることすら可能である。
『神農本草経』
「神農」は中国古代の伝説上の帝王の1人(伏羲・神農・黄帝)で、牛の頭をしていて角があり、木の葉で作った衣装を纏い、人民に初めて農耕というものを教えた。また赤い鞭で草木を打って採取し、その効用や毒性を一つ一つ検査して確定していった。このために神農は1日に70回も中毒を起こしたという。
神農は従来、農耕・医薬・商業の神として祀られてきた。現在の日本でも大阪道修町の神農祭は有名。
『神農本草経』は個々の生薬について解説したもので、後漢代(1〜2世紀)に成ったと推定される中国犀この薬物学書である(漢方では薬物学のことを本草学と称している)。
記載される生薬は365種で、それらは薬効から上品・中品・下品(上薬・中薬・下薬ともいう)の三ランクに分類されている。
「上薬は120種ある。君主の役目をする。養命薬、つまり生命を養う目的の薬で、毒性がない。だから長期服用してもよいし、そうすべきでもある。身体を軽くし、元気を益し、不老長寿の作用がある。」
(例)霊芝、茯苓、朮、地黄、人参など
「中薬には120種がある。臣下の役目をする。養性薬、つまり体力を養う目的の薬で、使い方次第では無毒にも有毒にも成る。だから服膺に当たっては注意が必要。病気を予防し、虚弱な身体を強壮にする作用がある。」
(例)当帰、黄岑、黄連、芍薬、薑、葛根、麻黄など
「下薬には125種ある。佐使すなわち召使いの役目をする。治療薬、つまり文字通り病気の治療薬である。これは有毒であるから、長期間服用してはいけない。寒熱の邪気を除き、胸腹部にできたしこりを破壊し、病気を治す。」
(例)大黄、巴豆、附子、半夏、杏仁、桃仁など
いまの西洋医学の概念では、薬とは治療薬であり、『神農本草経』の下品に相当するものである。「治療薬は有毒であり、長期服用できない」という言葉は示唆的で真理を突いているように思える。
『黄帝内経』
黄帝は民衆に後刻の栽培法を教え、徳望厚く、神農の一族にかわって天子の座についた。漢民族の祖とされ、文字・音律・度量衡・医薬・衣服・貨幣などを初めて定めたとされる。
現伝本は『素問』と『霊枢』という二つの書からなり、春秋戦国時代以来の医学論文を綴り合わせ、前漢末から後漢初期、すなわち今からおよそ2000年前に生理編纂されたと考えられる医学総合理論書、および物理療法(針灸術)書である。記述形式は、黄帝が岐伯・伯高などの6命の臣下と問答するかたちが基本と成っている。
『素問』・・・生理・衛生・病理などの医学理論に重きが置かれる。1069年に林億という文献学者達により初めて印刷出版された。
『霊枢』・・・医学理論も説かれるが、どちらかというと診断・治療・針灸術などの臨床医学に重点が置かれている。そのため、古来、針灸術の経典とされ、『針経』と称された。
『黄帝内経太素』・・・7世紀前半に楊上善という人が『素問』『霊枢』の本文を内容別に再編集し、注を加えたものである。同書は8世紀に遣唐使によって日本に伝えられ、今日に残った。
『黄帝内経明堂』・・・針灸術に必要な経脈や経穴に関する専門書で、源流はやはり漢代に編集されたもの。
陰陽五行説
『黄帝内経』の全編を通じて一貫して流れる基礎理論は遺尿五行説という哲学思想である。これは陰陽説と五行説という別々の理論を組み合わせたものである。
陰陽説とは、森羅万象、世の中のすべての物質及び現象を陰と陽との相反する二性質に分けて把握認識しようとするもの。ただし陰陽は一定したのも出はなく、対立し統一し、また消長し転化を繰り返すことによって物事は運行する。陰の中にも陽があり、陽の中にも陰がある。また因果極まれば用途なり、陽が極まれば陰と成る。
陰陽説
陰陽説はいわばデジタル理論の祖である。しかし陰陽説の世界はあくまでもモノクロである。そこでカラー化するために考え出されたのが五行説である、という解釈もできよう。
五行説とは、森羅万象すなわちすべての事物・現象を木・火・土・金・水の五大要素に分類して認識しようとする考え方である。
五行説
五行は本来は土を中心とした四方の方位に由来するが、後に対等化され、五角形の相対関係にも移行した。四方の関係では、例えば四神があり、中央の土を囲んで、北から時計回りに玄武(亀)・青竜・朱雀・白虎の四獣が想定された。これはわが国の古墳の四方壁にも描かれているし、都の門の名にも充てられたから周知のことだろう。『傷寒論』でも玄武湯(=真武湯、附子の黒色とその薬効に由来)・青竜湯(麻黄の青色)・朱雀湯(=十棗湯、大棗の赤色)・白虎湯(石膏の白色)の処方名に応用されている。身近なところでは相撲の土俵がよい例である。中央の土俵は黄色であり、東西南北にそれぞれ青房・白房・赤房・黒房が下がっている。
五角の相対関係になると、五行のそれぞれの要素は木→ 火→ 土→ 金→ 水という相生関係、すなわち→ の順に生み出していく母子関係となる。かつ木→ 土→ 水→ 火→ 金という相克関係、すなわち→ の順に制御する強弱の間柄でもある。これを五行の相性相克関係という。
毎日我々の生活を拘束している七曜の名称にしても、陰陽(日月)五行(火水木金土)そのものであるから、その意味では現代を律しているとも云えよう。
臓 | 腑 | 感情 |
味覚 | 感覚器 | 組織 | |
木 | 肝 | 胆 |
怒 |
酸 |
眼 |
筋 |
火 | 心 | 小腸 |
喜 |
苦 | 舌 |
血脈 |
土 | 脾 | 胃 | 思 | 甘 | 唇 | 肌肉 |
金 | 肺 | 大腸 | 憂 | 辛 | 鼻 | 皮毛 |
水 | 腎 | 膀胱 | 恐 | しょっぱい | 耳 | 骨 |
五行は人体では上表のような器官・部位・昨日に配当される。
臓とは物をしまい込んでおく実質器官、腑は物が出入りする中空器官で、臓は陰、腑は陽に属し、それぞれ表裏の関係にある。
「健康」とは、これら人体における陰陽五行のバランスがとれた状態を言う。とすれば、病気とは言うまでもなく、何らかの原因(内因・外因・不内外因の三因)で遺尿五行の平公が崩れた状態に他ならない。「診断」とはどこが堂アンバランスであるかを察知する行為であり、その察知法には望・聞・問・説という四診がある。
「治療」とは何か。当然、崩れたバランスを本来あるべき正常の状態に回復させる行為がそれである。これには二法がある。衰弱した機能(=虚)を増強する方法〜補法、逆に邪気によって異常亢進した機能(=実)を制御削減する法〜瀉法、この二大治法原則があるに過ぎない。
薬物の気味(四気と五味)
食品・薬物にはみな酸・苦・甘・辛・しょっぱいの五味の性がある。中華料理の味はこのバランスできまる。漢方薬の薬性はこの五味で決まる。五味は臓腑と特異的親和性を持つ。
薬性を決めるために寒熱温涼(温・微温・平・微寒・寒)というもう一つの基準がある。その薬物が人体に対して温める作用があるか(薬物自体の性質が温・熱か)、冷やす作用があるか(薬物自体の性質が寒・涼か)を示す物で、陰陽理論である。これを薬物の四気と言い、味と合わせて薬物の気味という。これが中国医学の薬理学の基本である。食品(食性)も同じである。だから『神農本草経』以下、歴代の本草書ではすべての食品・薬物の筆頭に気味(五味と四気)配当が記されている。そして『黄帝内経』にはその理屈が書いてある。
陰陽五行説は現在も支持されている学説ではあるが、しかしことに五行説に至っては、細部において牽強付会な点も多い。うがった味方をすれば、どのような詭弁も弄せるという面も否定できないであろう。これはあくまで生理・病理・薬理を理解するための臨床における便宜上の考え方であって、絶対的真理ではないことは言うまでもない。
『気』の概念
人体に関わるあらゆる眼に見えないエネルギー。
気血を身体にめぐらせる経路に内経では十二経脈という物が設定してある。十二経脈ー三陰三陽の理論は『傷寒論』において新たに展開され、活用されることになった。
針灸治療では、上記の十二経脈と督脈(背部正中線を通る)と任脈(腹部正中線を通る)を合わせた十四経上に存在する約360の経穴を刺激する法法が取られる。また一部の針灸治療では、六部定位(寸口脈診)と称して、左右の橈骨動脈拍動部をそれぞれ三分した六ヶ所の部位を六臓六腑に配当し、各臓器の虚実を脈診で伺う方法も取られている(が、著者は疑問を抱いている)。
『難経』
正式名を『黄帝八十一難経』といい、『黄帝内経』の理論を踏まえて漢代に成立し、攻勢大きな影響を及ぼしたい学転籍。伝説上の名医、扁鵲が『黄帝内経』の八十一の難解なヶ所について解説した書であり、『傷寒論』張仲景序に「八十一難」を参考にしたという記録がある。内容は針術の理論と臨床を完結に述べた物で、相当個性が強い。脈・経絡・臓腑・病理・病態・経穴・針刺法について、八十一項に渡って論じられている。
日本人は簡潔で個性的な『難経』を平安時代以来とりわけ好んだ。それは昭和になってからも同じで,現在経絡治療と称する鍼灸学派は『難経』(部分的ではあるが)を基本的拠り所としている。
張仲景の医学〜『張仲景方』
張仲景の一族はもと200人余りもいたが、西暦196年以来10年も経たない間に140人も死亡してしまい、うち100人は急性熱性病の傷寒であった。中継は一族の人々が救うべくも無くなくなっていったことに心を痛め、その才を生かし、『素問』『霊枢』『難経』をはじめ、多くの医学書・薬物書・処方集を参考にして、傷寒と難病に関する専門書計16巻を完成するに至った。
『傷寒論』と『金匱要略』は古くは『張仲景方』と呼ばれていたようである。西晋時代(280年)頃になって『脈経』の著者として知られる王叔和によって再編集された頃はまだ一つであったらしいが、その後いつしか傷寒を扱った部分と雑病を扱った部分に分かれ、前者は唐代になって『傷寒論』と題され、医師の国家試験のテキストに採用されることになった。総代になると医学書の印刷出版が行われるようになり、『傷寒論』は1065年に、ついで翌年、『傷寒論』と電話医を別にするが同類の内容を持つ異本『金匱玉函経』も刊行された。また、残る雑病部分は当時伝わった『張仲景方』から傷寒の部分と切り離され、1066年に『金匱要略』と題され単行本として出版された。
『傷寒論』
張仲景の方書は一言で云えば、いくつかの生薬を巧みに組み合わせた複合処方を用いて種々の病態に対応する薬物治療書であり、『傷寒論』では「傷寒」という腸チフス様の急性熱性病とその治療が論じられている。
現伝の『傷寒論』は、全10巻、全22篇。112の薬方と72の薬物から構成され、約40000字弱からなる。古くから「その言、精にして奥。その法、簡にして詳」などと賞されるように、一見簡単で無駄のない文章で書かれているが、簡略であるがためにかえって奥義が究めがたく、研究者によりその解釈を大いに異にするところの多い所以でもある。
第一〜四篇は病理・診断のいわば総論とも言うべき部分であり、薬方は記されていない。即ち、弁脉法第一・平脉法第二には脈法を中心に診断法が記され、第五篇以下に出てくる用語の定義、基本理論が述べられ絵いる。
第五〜十二篇までが最も重視される部分で、六経病(太陽・陽明・少陽・太陰・少陰・厥陰)における病態の治療法が記述されている。これらは急性感染症の経過を帰納して病態・病気を分別したものである。
①太陽病→ ②陽明病→ ③少陽病→ ④太陰病→ ⑤少陰病→ ⑥厥陰病
①〜③を三陽という。この時期は外部から侵入した邪気と身体の正気が盛んに戦っている陽性病症期である。④〜⑥を三陰という。この時期は正気が消耗し身体が衰弱した陰性病症期である。
傷寒の病気は原則としてこの順に一日一日と信仰する。望聞問切の四診を駆使して、いま病邪が六経病喉の病期(病位)に位置するかを突き止める。これが『傷寒論』における診断である。切診、なかでも脈診はとりわけ重要視される。
一方、六経病のそれぞれの病態はさらに細かく類別され、各病症にはそれに対応する処方が設定されている。だから、その類別を見極めることによって、自動的に対応処方が浮かび上がる仕組みになっている。これが『傷寒論』における治療である。その概略は・・・
①太陽病・・・表熱。発表剤(発汗させて病邪を取り除く薬)を用いる。
(例)桂枝湯、葛根湯、麻黄湯
②陽明病・・・裏熱。
(例)大黄などの入った下剤の承気湯類、白虎湯
③少陽病・・・半表半裏
(例)柴胡剤などの和解剤
④〜⑥三陰病は三陽病ほどには厳密に区別されない。寒の状態にあるので温剤を用いる。
(例)小建中湯、四逆湯、真武湯
第十三には吐下の激しいコレラ様の病について、第十四には大病後に生ずる病について治法が記されている。
第十五〜二十二篇の条文の多くは、すでに第十四までに出てくるものである。第五〜十二篇が肋頚分類で条文が配列されているのに対し、こちらでは発汗・吐・下法など、それぞれ行うべき、あるいは行うべきではないと言った、要するに治療法別によって条文が配置換えされている。したがって、これらの篇を六経病篇に対し「可不可篇」と総称する。この可不可篇は現在補tんんどかえりみられていないが、六経病篇にない条文や、字句の異なる部分もあり重要である。
前述の如く、『傷寒論』では各症状に対して適応処方がそれぞれ決まっている。日本漢方では一般に、この適応処方の決まった症状を漢方の「証」と云っている。証と適応処方の即応するこの約束を「方証相対」と云い、『傷寒論』医学の真骨頂とされ、病名診断が必ずしも治療に繋がらない西洋医学とは異なる。証にした勝手処方を投与するこの考え方を「随証治療」と称している。
しかし、このような点のみが強調されすぎては誤解を招く恐れがある。他の歴代漢方医書ではやはり病名治療が一般的であると云わざるを得ない。
漢方における病因論
傷寒とは寒(邪)に傷(そこな)われるという意である。
漢方では病気の原因を大きく3つに分け、三因と称している。
【内因】身体内に起因するもので、喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の7つの精神感情によるものであるこれを七情という(本草で云う薬物組み合わせの七情とは別)。いずれも過多に走ると発病に至る。
【外因】身体外より侵入してくる邪気によるもので、風・寒・暑・湿・燥・火の六種の邪がある。これを六淫(六邪)と呼ぶ。季節や環境により、身体の虚に乗じてこれらの邪気が侵入してくる。寒に傷(やぶ)られたのが傷寒である。風に中(あ)てられたのが中風である。身体に邪気の侵入するすきを作らないようにするのが養生。
【不内外因】内因・外因のいずれにも該当しないものこれには、飲食・労働・性交過度・創傷・虫獣による生涯などがある。つまり、不摂生・不注意によるもの。
以上の三因については宋の陳言(1131〜1189)の『三因方』に詳しい記述があるが、『金匱要略』の冒頭総論にもすでに類似した記述がある。
『傷寒論』は本来は急性熱性の感染症の治法書であったが、後世さまざまの治験が行われ、解釈が拡大されて、慢性病にも応用されるようになった。つまり、三陰三陽の病気は進行せずとも、証さえ適合していれば、その病症はいかなる病気でも治せるというのである。日本の江戸時代には遂に「傷寒に万病あり。万病に傷寒あり」(永富独嘯庵)といわれ、万病の治法が備わっていると主張されるようになった。
『金匱要略』
張仲景方のうち『傷寒論』が傷寒という急性発熱病を論じているのに対し、『金匱要略』ではそれ以外の種々の疾病(雑病)とその治療について論じている。全部で25篇あり、循環器障害・呼吸器障害・泌尿器障害・消化器障害・皮膚科疾患・婦人科疾患から精神疾患、そして救急治療法から食物の禁忌に至るまで、あらゆる分野の疾病に言及している病名症候治療書である。
今日頻用される漢方処方(八味丸、当帰芍薬散、桂枝茯苓丸など)では『傷寒論』よりもむしろ『金匱要略』を出典とするものの方が多い。すなわち『金匱要略』は数ある漢方個展中、日本で最も処方利用率の高い本ということになる。慢性疾患を対象とすることの多い現代漢方治療において、『金匱要略』の有する応用価値は極めて大きい。
日本漢方の歴史
『医心方』(984年、丹波康頼)
平安時代における隋唐医学の集大成であり、中国医学受容の精華である。
丹波康頼は系図上中国後漢の霊帝の子孫で日本に帰化した阿智王(阿知使主?)より数えて八世の孫とされ、針博士・医博士となり丹波宿禰の精を賜った。本書は宮廷医学の秘典となり、医家丹波氏はこれにより以後900年にわたり宮廷医としての不動の地位を獲得した。
本書は全30巻からなる一大医学全書で、内容は医学の諸領域より、薬物・養生・房中にわたる。そのほとんどすべては中国医薬書からの引用で、病門の立て方は主として隋の『諸病源候論』に拠り、直接引用文献は百数十種類に及ぶ。よって、漢・六朝・隋唐の医薬文献の抜粋・集成と見るべき書であるが、その編集法には日本人的選択眼も反映されている。すなわち、陰陽五行説や脈論など、観念的・資源的な部分は多く節略される。論理よりも実用を重んじた日本の個性の表れである。康頼は帰化中国人の子孫としての自負もあり、日本人としての自覚もあった。『医心方』にはその両面が見える。
本書は長らく秘されて、幕末に丹波氏の子孫・多紀氏によって公刊されるまで、一般医家の眼に触れることはなかった。1984年に国宝に指定されている。
※ 丹波敬三(東京帝国大学教授)は丹波康頼の子孫であり、敬三の子は日本画家として著名な丹波緑川、その子は俳優の丹波哲郎である。
平安後期〜鎌倉南北朝時代
平安後期、北宋の出版医書が直ちに日本にもたらされても強烈な影響を与えると云うことはなかった。本格的な導入は南宋版によってであり、それも鎌倉時代になってからのことである。
当初それを担ったのは惟宗氏のような進歩的な宮廷医で、まもなく禅宗の僧医の手へと移っていった。禅宗は宗教の域を超え、学問・芸術すべてを包含し、宋元文化の基軸そのものであった。
室町〜安土桃山時代
中国の明代に対応する室町〜安土桃山時代、日本は極めて旺盛な意欲を持って明の医学文化を吸収した。近世日本漢方の礎は日明関係の時代に培われた。
室町時代の最先端医学は、明に留学し帰朝した医師達(入明医師)によってリードされた。
渡明した医師達はいずれも中国で名声を博したと伝え、皇帝・皇后の療治に卓効を奏して帰国した医家はこぞって法印の位に就き、家系は累世最高格の医家となった。あくまで中国は最先端医学の国であり、地位の確保にはその権威がなによりも役立ち、また必要だったのである。
近世日本漢方の基盤は田代三喜が明よりはじめて李朱医学を持ち帰り、道三がこれを広めたというのが通説である。
曲直瀬道三(1507〜1094)
室町末期から安土桃山時代に活躍した最も著名な医師である。道三は当時の中国医学を日本に導入し根付かせた功労者で、日本医学中興の祖と称される。道三は京都の人で臨済宗の僧籍にあったが、1528年に関東足利学校に学び、田代三喜に会い、医学を専攻した。帰洛後学舎啓廸院を創建して医学教育活動に従事すると共に時の権力者(足利義輝、毛利元就、織田信長、豊臣秀吉など)の医療を担当し、千利休などの文化人と親交を結んだ。
代表作に『啓迪集』(1574年)がある。本書はいわば平安時代の『医心方』(唐医学)、鎌倉時代の『万安方』(宋医学)と手法を同じくし当代の中国医学の要をまとめたものである。通説では『啓迪集』は金元李朱医学の抜粋と云われる。
江戸時代
元禄時代(17世紀後半)までは曲直瀬道三・玄朔およびその一門の学統が医学界を風靡していた。
江戸中期に古方派が出現した。古方派とは漢代に張仲景が作ったとされる『傷寒論』を聖典視し、そこに医学の理想を求めようとする学派である。この古方派に対し、宋金元医学を基盤とする従来の道三流学派は後世方派と称される。以後現在に至るまで、日本の漢方の大勢は古方派の握るところとなった。
古方派に属する医家として、名古屋玄医、後藤艮山、香川修庵、内藤希哲、山脇東洋、吉益東洞などが挙げられる。
◇ 名古屋玄医(1628〜1696)
京都出身。羽州宗純に学び、経学・易学に通暁。歴代中国医書を読破し、とくに『黄帝内経』『難経』『傷寒論』『金匱要略』『本草』などの古典籍を研究した。その背景には伊藤仁齊の古義学と通じるものがある。江戸寺中期の医学に強い影響を及ぼした。
主著に『医方問余』(1679年)、『金匱要略注解』『医経溯洄集抄』『難経注疏』『纂言方考』(1668年)、『丹水子』『丹水家訓』『閲甫食物本草』他がある。
◇ 後藤艮山(1659〜1733)
江戸出身。昌平黌で経学を受け、牧村卜寿に医を学ぶ。その後京都に渡り門人は200名を越え、香川修庵・山脇算用らを輩出。一気留滞説を提唱し、百病は一気の留滞から生じるといい、順気をもって治病の効用とすべきことを説いた。古方派の祖とされるが、当代の医書にも重きを置き、灸・熊胆・温泉などの効用も重視した。門人の筆録した『師説筆記』にその思想が伺える。
◇ 香川修庵(1683〜1755年)
姫路出身。京に上り伊藤仁齊の門で古学を修め、また後藤艮山に就いて医学を研究。『素問』『霊枢』『難経』以下、歴代医家の著書を渉猟したものの、これらすべてが信をおくに足らないことを知った。その中でただひとつ『傷寒論』のみが群書に勝って優れてはいるが、それでもなお『素問』龍の陰陽論の影響を受けていることを批判している。結局2000年の歴史を通じて、ついに師表と仰ぐ先人も、規範と仰ぐ書物も見いだし得なかったと嘆じる。古学を学んだ週案は熱心な孔子・孟子の崇拝者で、孔孟の教えを十分に学べば医学上の基本的な原理はことごとく得られるとの考えを持ち、その上で本草や古今の医書を学んで採るべき所をとり、これを親試試験によって確かめれば新しい移動の道が開かれる、といういわゆる儒医一本論を唱えた。
著書に『一本堂薬選』『一本堂薬選続編』『一本堂行余医言』他がある。
◇ 内藤希哲(1701〜1735年)
信州松本出身。用字より同郷の医師(清水某)について医を学び、後に江戸に出て開業した。他の古方派と同じく『傷寒論』を重視したが、『内経』や『難経』に基づいて古方を理解することが必要であると視、『医経解惑論』(1776)を著した。以降を弟子達が継いで完成させた『傷寒雑病論類編』もある。
◇ 山脇東洋(1705〜1762年)
山脇玄修の門人・清水立安の子として京都に生まれ、玄修に壊れて山脇家の養子となった。当初後世方医学を学んだが、後藤艮山に学んで啓発されて古医方を尊び、『傷寒論』をはじめとする唐以前の医方書を研究した。1754年には京都六角獄舎で男子処刑囚の屍体を解剖しその記録を『蔵志』にまとめて刊行した。これは日本初の学術的解剖とされ、解剖学史上高く評価される。門人に永富独嘯庵らがいる。
◇ 吉益東洞(1702〜1773年)
安芸広島出身。張仲景の医方の研究に傾注し、1738年京都に上り医を行い、40才過ぎて山脇東洋に認められてからは大いに名声を博し、古方派の雄として当時の医界を煽った。主著に『類聚方』(1764年)、『薬徴』(1785年)、『方極』(1764年)、『古書医言』他がある。
東洞は万病一読説なるものを考え出した。病気はすべて一つの毒に由来する、毒のある場所によって病態の発現が異なるに過ぎないというのである。また、薬というものはすべて毒、病気も毒によるものだから、毒をもって毒を制す、これが治病だと説いた。東洞の考える薬は中国伝統医学の基本理念に真っ向から相反するもので、まさに西洋医学的な薬の発想そのものであった。陰陽五行説を否定した東洞の簡明な医説は後学の多くの医師を魅了し、医界を風靡した。幕末〜明治初期の尾台榕堂(1799〜1870年)は東洞の学統を継ぐ者であり、今日の日本漢方界にも絶大な影響力を及ぼしている。
東洞の極端な医説は、息子の南涯(1750〜1813年)により修正の方向に向かい、論理よりも有用性を重んじ、臨床第一義とする流派も多く現れた。このような立場を取る人々を総称して「折衷派」と読んでいる。代表的人物として和田東郭や、蘭学外科と漢方の結合に成功した華岡青洲・本間棗軒、幕末から明治前期の漢方界の巨頭となった浅田宗伯などが含まれよう。
◇ 和田東郭(1744〜1803年)
摂津高槻の出身。竹中切齊、次いで戸田旭山に医を学び、26齊にして吉益東洞の門に入った。「一切の治病は古方を主とし、その不足を後世方をもって補うべし」と唱え、折衷派の泰斗として世に知られた。著述を好まなかったため自らの著作はないが、門人の筆録・編纂にかかるものに『蕉窓雑話』『導水瑣言』をはじめ『蕉窓方意解』『傷寒論正文解』『東郭医談』『東郭腹診録』などがある。
◇ 華岡青洲(1760〜1835年)
紀伊国那賀郡名手庄出身。1782年に京都に赴き、吉益南涯に古医方を、大和見立にオランダ流外科を学んだ。父の死去に伴い帰郷して家業を継承し、内科も外科も共に一致して生体の理を究めるべきであるとする「内外合一活物究理」を主張し、広く民間療法も採用して和漢蘭折衷の医方を実践した。その後再び上京して傾向麻酔剤の麻沸湯(通仙散)を創案し、1804年にこれを用いて全身麻酔下での乳癌摘出手術に世界で初めて成功した。従来の外科手技が外傷の縫合や腫瘍の切開にとどまっていたのに対し、清秋は関節離断・尿路結石摘出をはじめ多数の外科手術を敢行し成果を上げた。家塾春林軒に全国から集まった門人は千人を越え、多くの名医を輩出した。
◇ 本間棗軒(1804〜1872年)
水戸出身。漢方を原南陽に学び、蘭方を杉田立卿に学んだ。さらに長崎に赴いてシーボルトを師とし、京都の高階枳園に学び、奇襲で華岡青洲門に入り、外科を修得した。江戸で開業して華岡流医術を行い、はじめて大腿切断術に成功した。主著に『瘍科秘録』『内科秘録』他がある。
◇ 浅田宗伯(1815〜1894年)
信濃筑摩郡出身。中村中倧・中西深齊に医を、猪飼敬所・頼山陽に文を学んだ。幕末にはコレラや麻疹の治療に腕を振るい、巻く腑の御目見得医師に抜擢。1865年に幕命を受け、ヨコハマに駐在中のフランス公使レオン・ロッシュの治療に成功。維新後は皇室の侍医として漢方をもって診療にあたり、漢方医界の巨頭として石黒忠のりら西洋医の勢力と対峙した。著書の『勿誤薬室方函』(ふつごやくしつほうかん)『勿誤薬室方函口訣』は現代日本漢方処方の直接の出典となっている。
■ よくわかる黄帝内経の基本としくみ(左合昌美著)より
黄帝内経とは?
中国医学の根本となる経典。およそ2000年前(紀元前400〜200年頃の戦国時代)に編まれた医学の論文集です。東洋医学の治療家にとっては、西洋世界の『聖書』のような立場にある書物です。
当時は諸子百家と呼ばれる多くの思想家が活躍した時代であり、陰陽五行説が唱えられた時代です。当時にあっては最先端の科学的思考法であり、「宇宙には法則があって、ものごとは法則に従って起こる」ということを唱え、それまでの呪術的な要素を排除した画期的な書です。
『黄帝内経』における治療手段は明らかに針灸が中心です。
『黄帝内経』そのものは大昔に失われてしまって、今はありません。現存する書物で言えば『素問』と『霊枢』のこどたということになっています。それぞれ八十一巻で構成されていますが、いくつかの篇は失われています。
もともと教科書として編集されたものではなく、折に触れて記された論文の寄せ集めです。だから、言っていることは篇によりまちまちです。
また、当時の書物は竹や木の簡(札)を連ねたものであって、神に印刷したものではありません。
馬王堆漢墓から出土した医書の位置づけ
『足臂十一脈灸経』と『陰陽十一脈灸経』と名付けられた発掘医書は、霊枢の経脈篇の前身であるとして話題になりました。
馬王堆医書の内容は、現存する『素問』や『霊枢』と比べると、まだかなり原始的です。淳于意(=倉公、史記の扁鵲倉公列伝に登場する伝説の名医)の医学に比べても、かなり遅れている部分が多い。ところが、針灸治療のもっとも基本的な理論である経脈説については、むしろ出土文物のほうが淳于意の医学よりも『霊枢』の記述に近いのです。つまり、古代中国の医療の知識の集成には、いくつものルートがあったと考えられます。
『黄帝内経』を参考にした医書
『傷寒論』・・・『素問』+『九巻』+『八十一難』+『平脈弁正』・・・
『難経』・・・経言を敷延(経言はおおむね『素問』『霊枢』に見える難問)
『甲乙経』・・・『素問』+『霊枢』+『明堂』
『太素』・・・『素問』+『霊枢』
『黄帝内経』の構成と登場する医師達
そのほとんどの篇が問答形式になっています。医学の師匠たち(岐伯、少師、少兪、伯高など)が黄帝の試問に答え、あるいは黄帝が弟子の雷公に教えを垂れています。
<岐伯>
主流派であり別格扱い。
<伯高>
腸胃に関心があり、消化器系の寸法や容積を計測している。食物の五穀(粳米、小豆、大豆、麦、もち粟)、五菜(葵、ニラ、大豆葉、にんにく、葱)、五果(棗、李:すもも、栗、杏、桃)、五畜(牛、犬、ブタ、羊、鶏)を示して、何を食べるべきか、何を食べるべきでないかを五行説に沿って述べています。
<少師>
陰陽説ですが、三陰三陽ではなく二陰二陽です。
<少兪>
伯高同様に食物に関心がありますが、五行説にはあまり拘束されていません。人の持って生まれた体質にも関心が深いようです。
陰陽説
中国思想の基本となる考え方の一つ。万物には陰と陽の二面性があると考え、でも二つに分類するのが目的ではなく、バランスを取るための指針と理解すべし。
五行説
陰陽説とともに中国思想の基本となるもう一つの考え方。万物を5つのグループに分類し、その相互関係を説明するもの。
水:潤し下るもの
火:燃え上がるもの
木:生長し展開するもの
金:粛正し収斂するもの
土:これらをその上に引き留めて育んでいるもの
※ 五行説においては、何をどの項に配属させるかは唯一絶対ではなく、当時は目角分類を主張する学派も存在した。『素問』『霊枢』における五行説の拘束力は強くはなかったようだ。
<相剋>(互いに剋す)
木は土を貫いて生長し
土は堤となって水を防ぎ
水は火を消し
火は金を溶かし
金は木を切り倒す
<相生>(互いに助けとなる、生み出す)
木が燃えて火を生み
燃えかすは土を生み
土の中から金を生み出し
金の器を夜間放り出しておけば水がたまり
水は木を生長させる
陰陽五行説は方便
もともと陰陽説と五行説は別の学説であったものを、鄒衍が併せて論じるようになったもので、整理と説明のための方便であり、今となっては迷信とみられてもしかたない。今のところ、中国伝統医学はこれに代わりうる理屈を見つけられないでいる。
■ 「『傷寒論』の治療諸原則について」(藤平健)より
(第28回 日本東洋医学会総会会頭講演)
陽証並びに陰証の治療原則
『傷寒論』における陰陽
『傷寒論』における陰陽という概念は、中国で発達した自然哲学である陰陽五行の陰陽とは、少しその趣を医にしている。『傷寒論』はあくまでも純粋な経験医学であって、憶測や類推に関するものは一切含まれていない。『傷寒論』の中での陰陽は、哲学ないしは思想としての意味合いはほとんどなく、極端にいえば、一種の符丁的存在として扱われている。陰陽五行思想が席巻した時代にあって、その内容を取り入れることを敢えて拒否したかに見える『傷寒論』はきわめて特異な存在であると云わざるを得ない。一方、ほぼ時代を前後して成立したと考えられている『黄帝内経』が陰陽五行思想で濃厚に彩られているのを見るにつけても、一種奇異な感に打たれるのである。
『傷寒論』において陰陽とは、二種類の符丁であると考える;
・病気の流れの時期を表す
・生体に備わる防衛体力(自然治癒能力)と病毒(内または外からの侵襲勢力)との量的な消長を表す
もともと『傷寒論』は急性熱性疾患の中のもっとも悪性のもの、すなわち傷寒(腸チフス様疾患)と、もっとも良性なもの、すなわち中風(かぜ症候群様疾患)とを例にとって、その両者を絢い混ぜるようにしながら、その初発から死に至るまでの状態を、時の経過を追って整理分類し、その分類に従っての治療原則を示し、そしてその治療原則に沿っての多くの薬方の運用を、きわめて簡明直截に述べたものである。しかもチフスと風邪を例にとって述べながら、実は病気というものの流動の在り方と、それに対処すべき方法とが示されているところに『傷寒論』の医学書としての奥の深さと永遠性がある。
現代医学の診断学の著書から腸チフスの熱型を取りきたってこれに『傷寒論』の分類を当てはめてみると、『傷寒論』の病位は、腸チフスの熱型の上にピタリと当てはまるのである。
腸チフス | 傷寒論 |
悪寒戦慄をもって始まる腸チフスの初発の1〜2日 | 悪感発熱をもって始まる太陽病期 |
ついで熱の弛張する約1週間の腸チフスの弛張熱の時期 | 往来寒熱を主徴とする『傷寒論』の少陽病期 |
それに続く約2週間の腸チフスの持続熱の時期 |
潮熱を主徴とする陽明病期 |
養生の仕方が不適当であったり、その他の悪条件があった場合には、超からの大出血その他の致命的な障害が起こって、体温は急速に下降しはじめ、消化器系、循環器系などの急激な機能の低下をきたして、体温は平熱以下にまで下降し、ついには死に至る | 陰証期 |
『傷寒論』の中では、疾病というものは邪気ないしは病邪と生気または体力が相たたかう姿なのだ、などとはどこにも書かれていない。しかも邪気について触れているのはわずかに数条に過ぎない。
そして、この邪気に対処する方法として、陽証ではこれを攻めよと指示し、陰証ではこれを温めよと述べている。
すなわち、生体の正気、換言すれば防衛体力が、邪気すなわち病毒よりも優位にある前半の勝ち戦の陽証の時期では、生体が優勢な体力を利用して積極的な戦いを挑んでいるのだから、それに適合するような破壊力の強い武器を取りそろえてやるように配慮し、邪気の方が優位になってしまった後半の陰証の時期では、生体は守勢にまわらざるを得ないので、疲弊した体力を力づけながら合わせて敵の勢力をも殺ぐのに役立つような巧妙かつ微妙な武器を用意してやらねばならぬのだ、これをやるのが作戦参謀の仕事なのだ、と『傷寒論』は説いているのである。
いわば『傷寒論』は、病邪と戦っている病人側の作戦参謀のための戦術書であり、作戦要務令なのである。
陽証の治療原則
陽証の時期は、生体にとっては体力優位・病毒劣位のいわば勝ち戦の時期であるから、すべて熱を伴う。したがって、この熱が冷めて正常に戻るようにすることが陽証の治療の原則となる。しかし、同じ熱を冷めさせるにしても、病勢の進行の度合い、すなわち病期によりその方法に違いが出てくる。
1)太陽病の治療原則
発病の初期である太陽病期では、生体は余力十分な体力を駆使して、一刻も早く病毒を制圧しようとする。そのためには、正常体温を超えて一定のレベルまで体温を異常に上昇させる。その目的実現のために、表在性の血管は収縮させられて体表面からの温熱の放出を防ぐ。そると体表面の温度低下のために悪寒が起き、その結果筋肉の収縮が起こって温熱が産生され、設定された異常帯温レベル(セットポイント)を超えることができ、ここに至って発汗、放熱、治癒という段取りになる。
この際に、セットポイントまで体温を上げるために温熱産生を助長するようなものが生体に与えられれば大変好都合である。しかも体力を消耗するほど作用の強いものは好ましくない。
これに対して『傷寒論』では太陽病期に用いうる薬方として、温熱産生助長作用のもっとも緩和な桂枝湯から、もっとも強い大青竜湯に至までの幾種類かの薬方を用意している。そして病人の自他覚症状をよく見極めて、その証に該当した薬方を用いることにより「微似汗」(ジワジワとした発汗)を得て、病は初期のうちに治るのである。太陽病の薬方は、産熱助長のための方剤であって、発汗は治癒機転の結果として表れるものに過ぎない。
この温熱産生を助長するのに役立つ生薬として温薬が用いられる。そして、陽証の悪寒と陰証のそれとでは、もちうべき薬味が異なる。陽証には桂枝、麻黄、生姜、杏仁などがよく、陰証の悪寒に対しては附子、乾姜、細辛などが適する。前者は体を温めてのち表へ発散するように働き(表的温薬)、後者は同じく体を温めてのち裏を整える作用(裏的温薬)がある。
古人は「悪寒」という症状にも種類があることを見極めていた。すなわち、太陽病の悪寒は、悪感発熱であって、悪寒の中に発熱があり、発熱の中に悪寒がある。その定型的なのが、桂麻各半湯や桂枝二越婢一湯証にある「熱多く寒少なし」で、からだの大部分は暑くて、汗ばんでさえいるのに、肩の一部だけに寒気がある。
それに対して、少陽病の悪寒は、夕方に始まって、夜にいたってそれが止むと同時に熱感が起こり、ついで発汗してくると云うように、悪寒と発熱の間に多少の間隔がある。
それが陰証の悪寒では、寒気だけがあって、いつまでたっても、熱感すなわち発熱をきたすことがない。
太陽病期の悪寒と陰証の悪寒は明らかに異質のものであって、前者は体力優位病毒劣位にあるため、発熱を前提とした悪寒であり、後者は体力劣位病毒優位のために、発熱を伴うことができない悪寒なのである。
そしてそれぞれの種類の悪寒には、対処すべき薬味も薬方も、それぞれに違いがあるのである。
2)少陽病の治療原則
少陽病の特徴は往来寒熱(悪寒と発熱が多少の間隔をおいてくる状態が、数日にわたって繰り返される)である。病毒の侵入も深まってきており、それだけに防衛体力の消耗も多くなってきているわけで、生半可な黄染では病毒の勢力がすぐに盛り返してしまう、といった状態になってきている。
こうなると太陽病期のときのように、単に温熱の産生だけを心がければ事足りる、という訳にはいかなくなる。そこで、一方では温熱の産生を高めて、病毒の制圧をはかると同時に、他方では進行した戦いの結果派生した不必要な温熱を別の手段によって取り去るという必要が起きてくる。
この病期の薬方には、一部では太陽病期に用いられた温薬が配列されると同時に、また一方では、黄岑、黄連などの冷薬が配列される必要が起きてくるのである。
3)陽明病の治療原則
病毒がますます増加し、温熱の産生がセットポイントを超えるそばから病毒の増加が追いつき、温熱の産生が常時セットポイントを超えている状態である。だから熱感に続いての発汗が連続して起きており、悪熱・潮熱が起きてきて手足までが汗が出っぱなしの状態となり、発汗はあっても熱は下がることがなく、いわゆる持続熱の熱型が現出する。
この時期には、もはや温熱産生の必要はない。それどころか、苛烈な戦いの結果招来された不必要な多量の温熱を、一刻も早く取り除かねばならない。
この時期の薬方には、温熱の産生を助長するような薬剤はまったく見られず、石膏のような寒剤や、大黄や芒硝のような冷薬でもあり瀉薬でもある薬剤が配列されている。
陰証病期の治療原則
陰証病期は病毒優位体力劣位で生体にとっては負け戦の時期であり、温熱の産生がどうしてもセットポイントを超えることができなくなってしまっている時期であり、寒状が支配的となる。
すなわち、見たところ寒そうだし、実際に手足に触れてみても冷たい。体温計で測れば体温の上昇はあっても以上のようであれば、熱なし・寒あり、となる。
陰証では、この寒をあたためて取り除くことを治療の原則とする。しかし、同じ温めるにしても、病期の相違によってその方法に違いが出てくるのは三陽の場合と同じである。三陽が表・表裏間・裏と症状の主発現部位が異なるのに対して、三陰ではそれがすべて裏で同一部位であるため、三陽のそれほどの相違はない。
1)太陰病の治療原則
太陰病はまだ真の陰証ではなく、陽証から陰証への移行期に当たっている。
場合によっては必ずしも寒があるとは限らず、桂枝加芍薬湯証のように虚証の腹部膨満を主徴として寒はほとんど無いような場合もあるし、大黄附子湯証のように、寒があるけれども実証だという場合もあり、また人参湯や呉茱萸湯のように、裏寒である場合も存在する。
2)少陰病の治療原則
少陰病から真の陰証となる。
したがって、この病気には附子、乾姜、細辛などの熱薬が配列された薬方が出そろうことになる。しかしこれらの薬方を服用して寒さがとれて温かさを感じるようになっても、発汗をきたすようなことはないところからみて裏的温薬は、桂枝や麻黄のような表的温薬とは作用する場所や作用の機序などが明らかに異なるものであることが想像される。
麻黄附子細辛湯証の際にこれを服用すると、附子細辛は裏的温薬であるにもかかわらず、軽度の発汗をきたして治ることがあるのは、麻黄があるためと考えられる。
3)厥陰病の治療原則
■ 「ジェネラリストのための“メンタル漢方”入門」(宮内倫也著)
(日本医事新報社、2014年発行)
(つぶやき)私より大分年下の若い精神科医が独特の語法で書いた本で日本漢方と中医学が混在しています。精神疾患という捉えどころがない分野を扱っているのでイメージが今ひとつ湧きにくいのですが、気と血のリンクを強調したり、「瘀血は慢性炎症による組織リモデリング」と捉えるところが斬新だと感じました。
「メンタル漢方」とは?
精神疾患は捉えどころがない。「健常と異常との境」「異常と異常との境」、これらの境界線が実に曖昧である。
明らかな治療対象は西洋薬で治療し、明らかに正常なら治療しない。どっちつかずのグレーゾーンに漢方薬の出番があると考える。
漢方の基礎理論
・気と血と水 ・・・ 体を構成する要素の視点
・陰と陽 ・・・ 代謝バランスの視点
・熱と寒 ・・・ やや漢方独特の視点
・虚と実 ・・・ 病因と生体反応との視点
気・血・水のポイント
瘀血は慢性炎症による組織のリモデリング
駆瘀血剤は悪性腫瘍、肝硬変、強皮症などの膠原病、神経障害性疼痛などを改善させることが知られている。これらの疾患の共通項として浮き上がってくるのが「慢性炎症」である。瘀血は“慢性炎症による組織リモデリング”の状態なのではないかと考えている。
精神疾患と慢性炎症との関連性を示す例として、慢性炎症によるミクログリア活性化が、うつ病のメカニズムの一つとして注目されている。
気・血・水の不足と停滞は複合して生じる
気・血・水の異常はどれかが単独で存在することはなく、複雑に絡み合っている。気は血や水を造り、それらを巡らせる。一方、気がその力を発揮するには血や水の十分な量と巡りが必要である。よって、
不足は不足を生み、停滞は停滞を生む
不足は停滞を生み、停滞は不足を生む
と表現できる。気虚が続くと血虚も生じてくる、気滞が続くとそこの瘀血も生じてくる。
更には、瘀血があると血の流れが滞ることから、気虚や血虚や津虚が生じることがある。
気・血・水において、不足と停滞は色々な因果で複合して生じる。その「何でもあり」な病態を解きほぐしていって、どこに重点を置いて治療するかを考える必要がある。
体の構成要素 | 病態 | 名称 | 治療 |
気 (臓器の機能) |
不足 | 気虚 |
補気 |
停滞 | 気滞 |
理気 |
|
血 (肉体・内分泌) |
不足 | 血虚 | 補血 |
停滞 | 瘀血 | 駆瘀血 | |
水・津液 (細胞内液と細胞外液) |
不足 | 津虚 | 生津 |
停滞 | 水滞 | 利水 |
陰と陽
陽=異化 ・・・エネルギー(熱、気)を生み出す
陰=同化 ・・・物質(血、水)を生み出す
陽虚(代謝が落ちる)≒甲状腺機能低下症 ・・・気虚と寒(発生する熱が少なく気が虚してくる)
陰虚(代謝が亢進) ≒甲状線機能亢進症 ・・・血虚と熱(熱や気はあるものの乾燥して血が虚してくる)
陽陰両虚 ・・・高齢になると全体的な生理機能の低下もあって、陽も陰も虚してくる傾向となる。
熱と寒
実熱と虚熱
実熱 ・・・ 西洋医学で言う「急性炎症」 → 清熱
(例)急性肺炎や化膿性関節炎など。
虚熱 ・・・ 外的な刺激が弱くとも発生してしまう炎症 → 清熱ではあるが、陰虚なら補陰、気虚なら補気をプラスする
ちょっとしたストレスで炎症がダラダラ続いたり、反復し対してしまう状態。陰虚(血虚と熱)が関与していることが多い。
(例)慢性中耳炎や慢性副鼻腔炎など。心因性発熱や慢性疲労症候群も多分そう。
虚と実
日本漢方は患者さん側の“生気”(せいき=免疫能、抵抗力)と考えているが、本来の適切な(中医学的な?)虚と実は、病因である病邪を考慮しなければならない。生気にも虚と実があり、病邪にも虚と実があり、そのぶつかり合いの場として患者さんを見るべき。
外感病(急性の熱性疾患)における虚と実
『傷寒論』では、“生気の実 vs. 病邪の実”の状態が続いて生気が弱ってくると、“生気の虚 vs. 病邪の実”となり、陽病から陰病に写ると書かれている。
生気の実 vs. 病邪の実 ・・・陽病(『傷寒論』)。反応の場が強く、一歩も引かない。
生気の実 vs. 病邪の虚 ・・・発病しないか、してもすぐに治る。
生気の虚 vs. 病邪の実 ・・・陰病(『傷寒論』)。強い反応は起こらず、病邪に圧倒される。
生気の虚 vs. 病邪の虚 ・・・緑膿菌感染などの日和見感染。
感染症の考え方としては、“外邪”(ウイルスや細菌)が体の表面から内部に入っていくとしている。
一方、多くの慢性疾患や精神疾患は“雑病”と言われ、より体での出来事を重視する。
精神科では、生気は心の柔軟性やしなやかさ(レジリエンスと云う)を指し、病邪は、免疫異常や精神的負荷による恒常性の乱れと筆者は考える。
治療の原則は“扶正袪邪”
生気が虚していれば“補”する。具体的には、引用・気血水の不足を補う。
病邪に対しては、“瀉”する。過剰に蓄積していたモノを追い出したり、停滞していたモノを通したり。気血水の滞りを通す、温めたり冷ましたりする、たまった悪いモノを下す。
ただ、“瀉は生気を損なう”とされており、“瀉”ばかりやっていると患者さんが弱ってくるので要注意。患者さんの状態を考慮して、いち早く瀉してその後に補するべきか、まずは立て直しで補しておこうか、補と瀉を同時に行うか、などと考えながら漢方薬を選んでいく。