災害発生時参考HP

災害発生時に参考となるHP

 2011.3.11東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)で被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。
 停電している地域も多いとは思われますが、参考になるHPを集めてみましたので情報収集のひとつとしてご利用いただければ幸いです。

東北地方太平洋沖地震の総合情報(Google)

最新の災害情報(Yahoo)

最新の地震情報(日本気象協会)

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地震や水害にあった母乳育児中のお母さんへ
被災者の救援にあたっている方へ
お母さんを援助している方、及び、メディア関係者の方へのお願い
災害時の母乳育児相談ーよく聞かれる質問(FAQ)
災害時の乳幼児栄養に関する指針
災害時における乳幼児の栄養~災害救援スタッフと管理者のための活動の手引き

■ 被ばく関係

■ 食物アレルギー関係

食物アレルギー危機管理情報(アトピッ子地球の子ネットワーク)

<震災関係の新聞記事より>

 新聞の特集を中心に拾い読みしました。

「震災便乗商法」ご用心(2011年9月 読売新聞)

 東日本大震災に便乗した消費者トラブルが後を絶たない。不安をあおったり、復興を支援しようという善意につけ込んだりして商品を売りつけるなど、悪質な手口も目立つ。国民生活センターは、震災を口実にした販売勧誘や、もうけ話にだまされないよう注意を呼びかけている。

放射能不安あおる/復興支援名目

 同センターによると、震災があった3月11日から9月10日までの半年間に、震災に関連した相談2万5036件が全国の消費生活センターに寄せられた。阪神大震災や新潟県中越地震など大規模な災害後にも、消費者の不安をあおって不要な工事をしたり、商品を売りつけたりするトラブルが起きた。今回は、地震に加え、福島の原発事故に伴う放射能への不安をあおるケースが目立つのが特徴だ。
 放射能に関する相談は4354件あった。「放射能を除去できる」などとうたった浄水器や健康食品を購入したが、商品が届かなかったり、解約をしたくても業者と連絡がつかなかったりというケースが目立つ。市役所職員を装った男性に、放射性物質の侵入防止用として、換気扇フィルターの購入を持ちかけられたという相談もあった。放射線測定器の性能や購入を巡るトラブルも増えている。
 震災に伴う屋根の工事に関する相談も1296件寄せられている。埼玉県の60代の男性は、突然訪ねてきた業者に、「屋根が壊れている。早急に補修工事をしないと大変」と脅され、修理の契約をした。ずさんな工事なのに多額な請求をされたケースもあった。
 一方、被災者支援をうたったもうけ話にのせられ、被害に遭うトラブルも起きている。「被災地の復興を支援する会社の株を買わないか」などとして、未公開株を売りつける手口だ。こうした未公開株に関する相談は54件あった。中には3300万円を払った人もいた。これらの未公開株は購入後、買い取りを求めても断られ、金を取り戻せなくなることがほとんどだという。
 ほかにも、「被災者に入居させたいので、温泉付き有料老人ホームの利用権を購入してほしい。後で高値で買い取る」と勧誘されたケースもあった。
 被災者支援を口実に、貴金属を安く買いたたかれたという被害も続いている。業者に、「震災で医療器具を作るための貴金属が足りないので、売ってほしい」「売却代金の一部を義援金にする」などともちかけられ、ブレスレットを100円などの低額で買い取るという手口だ。「だまされた」と思い、貴金属を返してもらおうと業者に連絡をしても、つながらないことがほとんどだという。
 消費者問題に詳しい弁護士の中村雅人さんは、「『被災者支援』と言われると、つい警戒心を緩めてしまいがち。しかし、悪徳業者はそうした親切心に様々な手口で付け込んでくる。被害に巻き込まれないためには、震災に便乗した悪質商法の手口を知ることが大切。そして、契約の前には冷静に取引内容を確認してほしい」と話している。

震災に関連する主な相談例と対応策
 Q 自宅に来た業者に、屋根や水道管が壊れていると、修理を勧誘された
 A 急いで契約しない。契約書をもらって8日以内なら、クーリング・オフ制度による契約の解除が可能
 Q インターネットによる通信販売で放射線測定器を注文したが、部品が取れていた。返品をしたい
 A 通信販売にはクーリング・オフ制度はない。購入前に、商品の性能や機能、返品条件や業者の連絡先を必ず確認する
 Q 携帯電話に災害情報サイト利用料を請求するメールが届いた
 A 架空請求の可能性がある。安易に返信したり、支払いに応じたりしない
 Q 震災を口実に、貴金属の売却を求められた
 A 業者の勧誘文句をうのみにしない。断っても業者に居座られたら警察に連絡する


 消費者庁のホームページ(http://www.caa.go.jp/jisin/advice.html)や国民生活センターの資料をもとに作成。対応策は個別の事情によって異なってくる)

「医療機関債」の相談増…徳島(2011年8月27日 読売新聞)

 設備投資などで新たな資金を必要とする医療機関が発行する債券で、高利回りをうたう「医療機関債」への投資を、高齢者などが持ちかけられるケースが4月以降、徳島県をはじめ全国で相次いでいる。
 国民生活センターによると、リスクに対する十分な説明がない疑わしい投資話が多いと言い、相談は4月以降8月15日までに127件が寄せられた。業者に金を払ったという人は全国で約20人、最高で約1200万円を支払ったケースもあるという。同センターなどは「安易に業者の話を信じないで」と、注意を呼びかけている。
 医療機関債は医療機関を運営する医療法人が金を借り入れた際に発行する債券。鳴門市の50代女性には、7月中旬、債券の発行を委託されているという業者を名乗る男から電話があり、「置いてあるお金があるなら、定期(預金)と思って投資しませんか」と持ちかけられた。男は「医療機関債は厚生労働省も推進しており、発行元の医療法人は人工透析の設備投資と全国展開を考えている(ので新たな資金が必要になった)」として、年利4・1%のほか、3か月に一度配当金があると説明したという。
 センターなどによると、年利や配当金の支払い回数など、ケースによってばらつきがあるが、▽電話がかかった後、実際に自宅に来て手付金などを求める▽「国債や預貯金のようなもの」といって信用させる▽利益を強調しリスクを説明しない――などの特徴が目立つという。
 医療機関債は一医療法人が発行するものであり、国債などとは信用力に大きな差がある。また、センターなどでは、資金の借り手である医療法人が破産すると大きな損をすることもあるのに、そのリスクを説明していないのは問題があるとしている。
 医療機関債に関するトラブルの相談は、03~10年度まで年間1~3件のペースで推移していたが、今年度に入り急増。4~5月は関西や関東での相談が多かったが、「今までは相談例がなかった」(県消費者情報センター)という県内でも、7月以降、各地の消費者センターに計10件以上の相談が寄せられている。
 勧誘を受けているのは主に高齢者。相談を寄せる7割が60歳以上で、女性が4分の3を占めている。
 国民生活センターは「商品のリスクや内容の説明を十分に行わず、強引な勧誘をしているケースも目立った。内容を十分理解できない場合は契約せず、近くの消費生活センターなどに相談して欲しい」としている。(畑中俊)

放射能不安あおる不審業者(2011年7月25日 読売新聞)

除去うたう50万円器具 ネット通販で測定器届かず

 東日本大震災による原発事故後、放射能に対する消費者の不安をあおって商品を売りつけるなどのトラブルが起きている。
 国民生活センターでは、放射性物質の除去をうたう広告や勧誘をうのみにしないよう注意を呼びかけている。
 同センターによると、3月11日の東日本大震災から6月10日までの3か月間に、放射能に関する相談が2140件、全国の消費生活センターに寄せられている。食品の安全や衛生についての相談が多いが、放射性物質の除去をうたう商品などの広告や販売方法に関する相談も約3割あった。
 静岡県の80代女性は、自宅に来た業者から、放射性物質を除去するという器具を風呂場で使うことを勧められた。女性は、東北地方に住む息子のために、1台約50万円する器具を2台購入することにした。内金として約20万円を支払ったが、だまされたと思い、解約を希望しているという。ほかにも健康食品や浄水器などを売りつけるケースがあった。
 インターネットを利用した通信販売のトラブルも多い。茨城県の40代男性は、インターネットで放射線測定器を購入しようと、前払いで約7万円を業者に支払った。ところが、商品は届かず、返金もされないという。放射性物質への不安から、あわてて商品を購入した結果、「商品が届かない」「販売業者と連絡が取れない」というケースも目立つ。
 同センターの担当者は、「『市役所から来た』と言って家にあがりこみ、商品を販売する業者もいる。不審に思ったら契約をせず、近くの消費生活センターなどに相談してほしい」と話している。

「医療機関債」悪質勧誘に注意

法人破産の場合、損失リスク(2011年9月6日 読売新聞)

 医療法人が発行する証券「医療機関債」の勧誘に関するトラブルが急増している。
 販売代行業者が「元本割れしない」などと事実と異なる説明をし、震災に便乗して購入を迫る悪質なケースもある。国民生活センターで注意を呼びかけている。
 国民生活センターによると、4月1日から8月15日までの間、医療機関債に関して全国の消費生活センターに寄せられた相談は127件。昨年度は1件だった。相談者の7割以上が60代以上で、購入金額の平均額は約143万円。中には1200万円以上支払ったケースもあった。
 手口で目立つのは、「元本割れしない安全な商品」「高い利息が付く」などとしつこく勧誘するもの。「震災で病院が不足しており、そのためのもの」と震災に乗じたものや、軽度の認知症で判断力が低下した人を勧誘した悪質な事例もあった
 厚生労働省の指針によると、医療機関債は、医療機関を開設する医療法人が、民法上、金銭を借り入れたことを証明するために作成する証拠証券。証券取引法で規定する有価証券には該当せず、金融商品ではない。法人が破産した場合は全面的損失のリスクがあるという。
 国民生活センターは「リスクや契約内容について、業者から適切な情報が提供されず、理解できないようであれば契約しないでほしい。周囲の人も、高齢者や判断力の低下した人がトラブルに遭っていないか見守って」と呼びかけている。

放射線測定器、感度バラつき…国民生活センターが注意(2011年9月9日 読売新聞)

 国民生活センターは8日、インターネット上で1台数万円で販売されている9種類の放射線測定器の商品テスト結果を公表した。
 測るたびに数値にばらつきが出るなど、正確性に欠けており、同センターは「安価な測定器の中には、数値を信頼できない商品もある」と注意を呼び掛けている。
 テストは、福島第一原発の事故以降、消費者から放射線測定器に関する問い合わせが増えているのを受けて実施。ネット上で3万6000~6万2000円で購入できた8社9種類の測定器を対象にした。いずれも電源を入れると毎時のマイクロ・シーベルトの値を示すタイプ。「高精度」などとうたっていたが、実際の放射線量の3分の1の数値しか示さなかったり、10回測定した数値の開きが倍以上あったりと、大きな誤差が出た。

放射能不安 買ってみたけど…測定器、精度まちまち(2011年8月5日 読売新聞)

使い方次第「一喜一憂しないで」

 東京電力福島第一原発事故の影響で、福島県以外の地域でも、放射線測定器を購入する住民が増えている。
 本来、身の回りの放射線量を把握すれば安心感は高まるはずだが、こうした測定器は使い方次第では表示される数値が異なる恐れもあり、必ずしも正確とは言えないケースも。専門家は「数値に一喜一憂しないように」と冷静な対応を呼びかけている。
 今月3日、千葉県流山市で●灸院を営む板倉千世さん(41)は自宅前で、携帯電話より一回り大きな放射線測定器のスイッチを入れた。政府の学校屋外活動制限基準は毎時3・8マイクロ・シーベルトだが、7月に約6万円で購入したこの測定器はウクライナ製で、毎時0・3マイクロ・シーベルトを超えると警告音が鳴る。(●は金ヘンに咸)

 長女の杏弥佳(あやか)ちゃん(3)の顔あたりの地上50センチで測定すると、毎時0・17マイクロ・シーベルト。道路脇の側溝にかざすと毎時0・57マイクロ・シーベルトで、ピーという音が鳴った。「ウクライナではそういう基準なのだと思う。この数値で子どもが生活していって大丈夫なのか心配です」と話す板倉さんは、以前使っていた別の測定器よりも、この測定器では数値が高く出るとも感じている。
 板倉さんは、同市内の子どもを持つ親ら約50人で結成した「東葛ガイガー会」の会員で、測定した放射線情報を会員同士で共有している。同市を含む千葉県北西部は、周辺より放射線量が高い「ホットスポット」と週刊誌で報道されたこともあり、同会では独自に測定を行った。国内の基準値を超える数値は出なかったが、同じ場所でも測定器によって様々な数値が出たという。
 住民が自力で測定を始めたのは、行政が発表するデータを「不十分」と感じているからだ。文部科学省が毎日公表している福島県外の放射線量は、各都道府県に1か所設置されたモニタリングポストとその周辺、各地の国立大学や原子力関連施設での測定値しかない。
 同会代表の山崎代三さん(47)は「自分たちの測定は精度が低いかもしれないが、家族を守るためにはできることをやるしかない」と語る。
 住民の不安感を背景に、測定器の売り上げも伸びている。教材用に測定器を年100台程度販売していた「堀場製作所」(京都市)には、震災後、企業や官公庁、個人から注文が殺到し、現在は週1000台を生産している。また、日用品大手の「エステー」(東京)も今年秋、「子ども連れのお母さん」をターゲットに測定器を1万5000円(税抜き)で売り出す。
 首都大学東京の福士政広教授(放射線安全管理学)は「測定器の中には、数値が高めに出るものもあり、測定のやり方で数値は大きく変わる」と指摘する。放射線量を把握できれば安心につながるが、不正確な数値は逆に不安感をあおりかねず、福士教授は「出た数値に一喜一憂せず、複数の測定器を持ち寄って計測するなど正しく把握する工夫をしてほしい」としている。

教室の窓、開けても閉めても同じ?…放射線量(2011年5月27日 読売新聞)

 文部科学省は26日、主に福島市内の幼稚園や小中高校など10か所で、教室の窓を開けた場合と、閉めた場合の教室内の放射線量を測定した結果を発表した。
 同市内の学校では、放射線の影響を避けようと、窓を閉め切って授業を行うケースが目立っているが、測定結果では、4校で窓を開けた時に数値が上がった一方、3校では閉めた時に上がっており、変化はいずれも毎時0・1~0・2マイクロ・シーベルト程度だった。ほかの学校では変化がなかった。同省では「変化の数値は誤差の範囲内で、この結果から見る限り窓を開けて授業をしても影響はない」としている。
 調査は今月19日、各学校で、2~3の教室の窓側と中央付近の2か所で、それぞれ50センチと1メートルの高さの計4地点を測定した。

■ 放射能と暮らす(2011年8月:読売新聞)

(1)子どもの被曝 不安募る

 「親としてきちんと子どもを守っていると、自信を持って言えない今の状況は良くないと思う」
 福島市の主婦横山忍さん(38)は、4人の子どもへの放射線の影響を心配する日々が続いている。東京電力福島第一原発の事故の後、夫を残し愛知県の親戚宅に一時避難したが、「やはり家族一緒に暮らしたい」と4月半ば、福島に戻った。
 長男(11)、次男(10)、長女(6)が通う小学校は、国が定めた基準(大気中の放射線量が毎時3・8マイクロ・シーベルト以上)に該当したため、屋外活動が制限され、休み時間は室内で過ごした。
 その後、校庭の表土を入れ替える「除染」で放射線量は下がり、保護者が許可すれば外で遊べるようになったものの、子どもと話し合い、外遊びはしていない。学校以外の場所の除染は進んでいないからだ。
 7月初め、保護者有志で3日間かけて通学路の100か所以上の放射線量を計測した。草むら(地上1センチで毎時7・2マイクロ・シーベルト)、側溝(同5・2マイクロ・シーベルト)、マンホールの上(同6・2マイクロ・シーベルト)など、放射性物質がたまりやすい場所は軒並み高く、100マイクロ・シーベルトを超える場所もあった。
 ある日、長男と次男が友達の家に行く途中、側溝にゲームソフトを落とし、のぞき込んで手を伸ばす姿にヒヤヒヤした。「放射線量の高い場所には近づかないよう言い聞かせても、子どもはどんな行動をとるかわからない。とても外で遊ばせられません」
 放課後はサッカークラブで活動していた2人も、自宅でテレビゲームなどをして過ごす。
 食事にも気をつけている。西日本の野菜を取り寄せ、給食は産地表示がなかったので、お弁当を持たせた。
 国が定めた3・8マイクロ・シーベルトの基準は、国際放射線防護委員会の考えに基づき、子どもの受ける被曝(ひばく)を年間20ミリ・シーベルトに抑えるよう計算されている。だが基準は甘すぎるとの声もあり、健康影響の程度は不明だ。除染対策も進まない。福島市など放射線量が高い地域で子どもを育てる親の悩みは深刻だ。
 横山さんは今月2日から3泊4日、次女(1)を含め4人の子どもを連れ、山梨県に保養に行った。食材を選ぶ苦労もなく、思い切り外遊びもできた。
 「家も建てたばかりで、迷いはある」が、子どものことを考えると、そうも言っていられない。自治体の住宅補助制度を使って“疎開”できないか、真剣に考えている。

(2)洗濯のり使い自宅除染

 9歳、1歳の2人の子どもを持つ福島市の主婦A子さん(36)は、自宅や周辺の放射性物質を取り除く「除染」に取り組んでいる。
 放射線に不安を抱く親が立ち上げた「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」の会合に参加し、京都精華大教授(環境学)の山田国広さんらが作った「放射能除染・回復プロジェクト」の活動を知った。
 5月中旬、自宅の中や庭の放射線量を山田さんらに調べてもらった。雨水が流れ込む雨どいの下は毎時60マイクロ・シーベルトあった。国が定めた校庭の活動基準(毎時3・8マイクロ・シーベルト)より、はるかに高い。
 雨どいの下の土からは避難区域に匹敵する高い濃度の放射性物質が検出された。
 「子どもたちの健康への影響が心配」と翌月、山田さんの指導で、雨どいの下など放射線量の高かった場所の除染を行った。
 ホースで水を勢いよく当てて洗い流す高圧洗浄は、効果に限度があるうえ、洗い流した水が別の場所に流れる問題がある。そこで山田さんが除染に使うのは、PVA(ポリビニルアルコール)の成分表示のある洗濯のりや、でんぷんのりだ。液体や粉タイプがあり、100円ショップやホームセンターで入手できる。
 住宅の壁など表面が固い場所は、はけで塗り、土壌には液体をひしゃくでまく。園芸用シートやガーゼのふきんをかぶせて数時間おき、壁の表面にできた膜をはぎとり、固まった土を取り除く。砂利を敷くと、さらに放射線を遮る効果がある。
 A子さん宅の雨どいの下の放射線量は、この作業の結果、毎時1マイクロ・シーベルト以下に減った。
 その後も休日を利用して、夫(39)や母(56)が30坪ほどの庭の芝生をはがしたり、砂利を敷いたりと少しずつ除染を進めている。
 取り除いた土や芝生の処分先が決まっていない問題もある。「最終的には東京電力や国が引き取るべきだ」と思っているが、現在は麻袋に入れ、庭に穴を掘って埋める。もう50袋になった。
 家の壁や屋根も除染したいが、足場を組むだけで20万円かかる。「土やほこりによる被曝も心配。国が責任をもってやってほしい」と憤る。
 山田さんは「市民自らが身の回りのどこに放射線量が高い場所があるかを知り、除染を行うことは、放射能から身を守るために重要」と話す。「放射能除染マニュアル」を作成し、ホームページで公開している。

 NPO法人「木野環境」のホームページに掲載

(3)除染の実験結果を公表

 「家庭用浄水器で放射性物質を除去できるか」「野菜は洗うと良いか」――。
 日本放射線安全管理学会の「放射性ヨウ素・セシウム安全対策アドホック委員会」は、日常生活の疑問に答えようと、実験結果を公表している。委員長の名古屋大名誉教授、西沢邦秀さんによると、今回放射能汚染された実物を可能な限り入手し、実験を行っている。それによると――。

 〈1〉浄水器は有効か?

 雨水や地下水に、市販のポット型浄水器(濾過材は活性炭やイオン交換樹脂など)5種類を試したところ、放射性ヨウ素は70~98%、放射性セシウムは78~93%除去できた。
 ただし、浄水場の段階でも活性炭などを使い放射性物質の除去を行っており、家庭の蛇口から出る水道水に対し、さらに除去する効果があるかは不明という。

 〈2〉野菜は洗うと良い?

 ホウレンソウを、水に10分間浸した後、流水で葉を広げて指でこすりながら5分間洗浄するなどした。放射性ヨウ素は12~50%、放射性セシウムは32~70%除去できた。ゆでる、酢や食用洗剤、アルコールなどによる洗浄も行ったが、水で洗ったのと差はなかった。
 放射性物質は、葉の表面の傷や枯れた部分に多く付着していた。

 〈3〉服の汚染は洗濯すると落ちる?

 福島第一原発周辺で働く作業員の服を入手し、家庭用洗濯機で市販の洗剤を使い通常モードで洗濯した。1回の洗濯で、厚手の靴下は放射性セシウムを70%、薄手の靴下は78%、ズボンは、特に汚染がひどかった裾部分が86%除去できた。一緒に洗濯したほかの衣服や洗濯槽から放射性セシウムは検出されなかった。

 〈4〉土は表面を入れ替えると良い?

 福島県内で採取した土の上に、砂と石を混ぜて重みをつけた土をかぶせた。地表から1センチの大気中の放射線量は、土を2センチの厚さかけたところ68%減った。厚さが10センチだと93%、20センチだと97%減少した。かぶせる土が重いほど放射線を遮る効果がある。
 土を掘り起こすと放射性物質が拡散するので、汚染された土は、土のう用の袋などに詰めて処理するのが望ましい。
 詳しい結果は、日本放射線安全管理学会のホームページで公表。住宅の除染マニュアルも掲載している。茶葉から放射性物質がどれだけ溶けだすかなどの実験についても、随時追加する予定だ。

(4)食物からの内部被曝も

 川崎市の主婦B子さん(37)は、福島第一原発の事故以来、小学3年生を頭に3人の子どもの食事に苦心してきた。野菜と飲料水、牛乳は、西日本から月1回、宅配便で取り寄せる。野菜はよく洗い、生では食べさせない。
 肉は塩と酢を入れた水に数時間漬けてから調理する。チェルノブイリ後の実験で放射性物質を除去できるとのデータを見つけたためで、「どの程度効果があるかはわからないが、塩味がつくし、油が水に溶けてフライパンが汚れないこともあり、続けている」と話す。
 放射能の体への影響は、外から浴びる外部被曝(ひばく)のほかに、食物や呼吸で体に取り込んだ放射性物質による内部被曝がある。国は、飲料水、肉・野菜・卵などについて放射性ヨウ素と放射性セシウムそれぞれの、暫定規制値を定めている。
 放射性ヨウ素は半減期(放射線が半分になる時間)が8日間と短いため、現在主に問題になるのは放射性セシウムだ。
 放射性セシウムの規制値(1キロあたり500ベクレル)の値の牛肉200グラムを食べた場合、体内に取り込まれる量は100ベクレル。すべて放射性セシウム137と仮定した場合、国際放射線防護委員会の示す計算式で被曝量に換算すると大人で1・3マイクロ・シーベルトになる。セシウム137の半減期は30年で、尿などから徐々に排出されることも含めて、50年間での被曝量を計算したものだ。子どもは、大人より被曝量は増える。
 国際放射線防護委員会の計算式は内部被曝の影響を軽視している、との批判もあり、より厳しい計算式を示すグループもある。
 体内の放射性物質を効率的に排出できる食材はあるのか。岐阜環境医学研究所所長の松井英介さんによると、科学的に確かな効果が確認された排出法はない。松井さんは、「まずは、なるべく取り込まないこと。バランス良い食事や睡眠、運動を心がけて、健康で抵抗力のある体を作ることが大切。そのうえで、ほかの放射性物質も含めたきめ細かな検査や基準の見直しを国に求めたい」と話す。
 B子さんは、今は、こう思い始めている。
 「どれだけ汚染されているかわからない以上、同じものばかり食べるのではなく、様々な産地の食材を使うことが危険を減らすことにつながるのではないか」。足りない食材をスーパーで買う際は、なるべく産地が偏らないようにしている。

<メモ>
 東京都品川区のシステムエンジニア(34)は、食品中の放射性物質の濃度と摂取量を入れると年齢別に被曝量がわかるシステムを作成、ホームページで公開している。

(5)母親「自分で確かめる」

 千葉県柏市に住む主婦C子さん(35)は福島第一原発の事故後、通信販売で購入した携帯型の放射線測定器で、周囲の放射線量をこまめに調べている。
 8歳から1歳まで4人の子どもを育てる。国の調査で、千葉市の母親の母乳から放射性ヨウ素が検出されたのを知り、放射線の影響を身近に意識するようになった。野菜や牛乳などは九州地方から取り寄せ、調理用や飲み水は全て市販のミネラルウオーターを使う。
 効果の程度はわからないが、「がんの危険性など、将来子どもが直面する問題は誰にも分からない。自分のできる限りのことはやりたい」との思いからだ。
 同市など千葉県北西部、茨城県取手市、栃木県北部の那須塩原市など、原発から離れた関東地方の一部地域で放射線量が周囲よりも高い「ホットスポット」が見つかっている。原発の水素爆発が起きた後の風向きや降雨、地形などの影響で、放射性物質がまとまって降り注いだとみられる。
 文部科学省や自治体などの測定によると、同じ関東地方でも、さいたま市や宇都宮市、千葉県市原市などは、毎時0・05マイクロ・シーベルト前後。これに対し、ホットスポットがある地域は、7月25日~28日測定分で、柏市で最も高かった地点で0・38マイクロ・シーベルト、松戸市0・42マイクロ・シーベルト、鎌ヶ谷市0・32マイクロ・シーベルトだった。
 ちなみに福島県内では、福島市や郡山市で1マイクロ・シーベルト前後、南相馬市が0・4マイクロ・シーベルトほどの値だ。
 C子さんが放射線量の測定を始めたのは、インターネットなどで、「柏市の放射線量が、他の地域より桁違いに高い」などの情報をよく目にするようになったためだ。「最初は信じられませんでした。周囲に騒ぎすぎと思われるのも嫌で、自分でしっかり確かめる必要があると思いました」と話す。
 5月下旬、C子さんは購入した放射線測定器を使い、自宅近くや子どもの通う幼稚園周辺などで放射線量の計測を始めた。自宅マンション1階は0・12~0・23マイクロ・シーベルト。幼稚園の運動会が行われる公園では、地表から高さ5センチの位置で0・67マイクロ・シーベルトの地点もあった。
 市は7月下旬から、幼稚園や学校の教職員が放射線量を測定し、線量が高い地点の土砂の除去などを行うホットスポット対策にようやく取り組み始めた。
 C子さんは、「放射線量が高いままでは、子どもを外で思い切り遊ばせることもできない。徹底した放射線量の測定と除染で、納得いくような安全の証明をしてほしい」と訴える。

(6)簡易測定器 誤差に注意

 市民自らが放射線測定器を購入し、身の回りの放射線量を測る動きが広がっている。放射線量が高い場所を知ることは、無用な被曝を避けるのに役立つが、簡易型の測定器は誤差も大きいので注意が必要だ。
 千葉県柏市に住む本紙記者(43)も、市内の放射線量が首都圏では高めと聞き、インターネットで中国製という簡易型の測定器を約6万円で購入。子どもを連れて散歩する川沿いの遊歩道などを測ってみた。
 川の土手で自分で測った数値は、毎時0・1マイクロ・シーベルト程度と表示された。そこで今度は、同僚記者が持っていた別の機種を借り、同時に測ってみた。すると同じように測ったのに、同僚の機械が示す値は同0・3マイクロ・シーベルト以上と、約3倍開きがあった。
 測定器によって、どうして、こんな差が生じるのだろうか。
 高エネルギー加速器研究機構(茨城県つくば市)教授の野尻美保子さんによると、業務用の測定器は出荷前に1台ずつ正しい値を示す機械と同時に測り、値の調整をしている。これを「校正」と呼んでいるが、簡易型の測定器は校正をしていないものが多いという。
 「特に毎時0・2マイクロ・シーベルト以下の低い線量を測る時は、機械の内部から出るノイズ(雑音)を拾ったり、自然界にある微量の放射線を実際より高く測ったりするので、値が高めに表示されやすい」と野尻さんは指摘する。
 今年6月、野尻さんたち同研究機構の研究者は、東京・秋葉原で、市民が購入した簡易型の測定器の精度を測る会にアドバイザーとして参加。実験用のセシウム密封線源を中央に置き、一斉に測定を開始した。
 集まったのは、日本製のほか、米、独、仏、中国、ロシア、ウクライナ製などの簡易型測定器約40台。毎時0・60、0・20、0・10マイクロ・シーベルトの放射線を測ったが、すべて正確に表示したのは1台もなかった。
 毎時0・10マイクロ・シーベルトを0・09~0・23、同0・20マイクロ・シーベルトを0・15~0・44と表示し、最大で2倍以上の差があった。多くの機械が実際より高めに表示する傾向がみられた。
 首都大学東京教授、福士政広さんは「簡易型の測定器は、30%くらいの誤差はあるので、自分で測った値は目安として考えてほしい」と話す。
 ただ、機械の誤差は減らせなくても、測り方に気をつけることで、測定時の誤差を減らすことはできるという。次回は、簡易型の測定器を使った測り方のコツを紹介しよう。

(7)複数回測定 平均値で判断

 簡易型の放射線測定器は、どんなことに気をつけたら良いのだろうか?
 高エネルギー加速器研究機構(茨城県つくば市)で、簡易型の測定器を使った実験をしてもらった。
 放射線源を置き、測定器のスイッチを入れた。すると、20秒ごとに毎時0・19~0・44マイクロ・シーベルトと違う値が表示された。
 放射線測定器は、一定時間に入った放射線の数によって放射線量を計算している。低い放射線量だと、時間ごとに入ってくる放射線の数にばらつきが大きいため、数値が大きく変わることがある。
 同機構放射線科学センター助教の岩瀬広さんによると、機種によって測定時間(数分程度)が異なるので、スイッチを入れ、しばらくして数値が安定するなら、その数値を読む。数値が変化するなら平均をとる
 「測定時間を変更できる機種なら長めに設定し、何回かの平均をとるとさらに良い」とアドバイスする。
 公表されている空間の放射線量は、放射線のうち「ガンマ線」を測ったものだ。これに対し、最も普及しているガイガーカウンターという機種は構造上、「ベータ線」も拾いやすい。実際の放射線量より何倍も高い不正確な数値を表示することがあるので注意が必要だ。
 測定器がベータ線を拾うのを防ぐには、ベータ線を遮蔽できるアルミ製の鍋などに入れて測るとよい。数値が大きく変わるなら、以後その方法で測る。ガンマ線は体を貫通するが、ベータ線は貫通しないので、外部から被曝した場合の人体への影響は小さい
 同じ場所を測る時は向きを常に一定にし、地上からの高さと合わせ記録しておく。地表近くを測る時は、放射性物質が付着しないようにビニール袋に入れて測る。自治体が業務用の測定器で測った場所が近くにあれば、その場所で同じ条件で測ると、大まかな誤差を知ることもできる。
 こうして得られた値は必ずしも正確でないかもしれないが、線量の高い場所を探す上で役に立つ。同機構研究員の一宮亮さんは「みんなで測った値を共有し、自治体の計測値と比較すれば、どこが放射線が高くどこが低いかを、大まかに推測できる」と話す。

ガイガーカウンター(GM管)
 放射線が容器に当たると電子を出し、電子を数えて放射線量を計算する。測定器にはこの他、放射線が当たった時に出る光を測る「シンチレーション式」や、半導体を使ったものなどがある。

★ 「測ってガイガー!」 
 簡易型測定器を持っている人が、持っていない人からの依頼を受けて測定し、結果を投稿するインターネットのサイト。

(8)被曝対策、市民参加が大切

  「100ミリ・シーベルトまでは問題ないと言う人もいれば、危ないと言う人もいる。何が本当なのか、よくわかりません」。東京都の主婦(37)は、不安げに話す。
 この主婦の不安は当然だ。100ミリ・シーベルトより低い放射線の影響がどれほどなのか、はっきりしていないからだ。
 放射線の健康影響の土台になっているのは、広島・長崎の被爆者の追跡調査だ。放射線影響研究所(広島市)が、被爆者約9万4000人と、広島・長崎在住だが原爆爆発時に市内にいなかった約2万7000人の計約12万人を現在も継続して調査している。
 最初に影響が出たのは白血病で、原爆の2年後から増え始め、6~8年後に最も増えた。ただし、被曝
量が5~100ミリ・シーベルトだった約3万400人では、被曝が原因とみられる白血病の死者は4人で、明らかに増えたかどうかはわからなかった。白血病以外のがんは、25年後の1970年ごろまで明らかな増加はみられなかった。
 現在では、1000ミリ・シーベルトの被曝をした人は平均して、被曝していない人に比べ、がんの発症率が1・5倍高く、被曝量とがんの発症率はほぼ比例関係にある。だが、被曝量が少ないほど被曝していない人との差は小さくなる。同研究所主席研究員の中村典さんは「実際には何らかの影響があるのだろうが、12万人の調査で統計的に差が出るのは、100~200ミリ・シーベルトくらいまで」と話す。それ以下の量の被曝では、どの程度の影響があるのかはっきりしないという。
 100ミリ・シーベルト未満の放射線の影響は動物実験などからの推定になるが、専門家の間でも意見は分かれる。

〈1〉低い放射線量でも、量に比例して発がん率は増える
〈2〉一定量以下の放射線はまったく影響を与えない
〈3〉放射線量が低いからといって発がんの危険はあまり減らない

――などの説がある。
 同研究所の調査から推計すると、100ミリ・シーベルトを1度に被曝した時の生涯の発がん率の増加は1・05倍程度になる。それを多いとみるか、少ないとみるかは、個人によって受け取り方が違う。科学技術社会論が専門の東京大学教授、藤垣裕子さんは「どこまでを許容するかを決めるのは、社会であり市民自身」と話す。
 チェルノブイリ事故後の欧州では、住民が加わって被曝の低減に取り組んだ。日本でも今回、住民自らが周囲の放射線量を測定したり、放射線量の高い場所を除染したりといった取り組みが進んでいる。
 「『ただちに影響はない』といった上からの一方的なメッセージではなく、被曝放射線量への対策なども市民が参加して決めることが納得や理解につながる」と藤垣さんは話している。

(中島久美子、館林牧子、野村昌玄)

(番外編)本格除染 長期的な視点で

 福島県南相馬市で放射能の除染活動を行っている東大アイソトープ総合センター長の児玉龍彦さん(東大先端科学技術研究センター教授)は、7月下旬、国会に参考人として招かれ、国の放射能対策の遅れを厳しく批判、独自の提案を行った。今月12日に開いた記者説明会などでの内容を含め、児玉さんの主張を紹介する。

 今回の原発事故で放出された放射性物質は、私たちの計算だと広島原爆の20個から30個分に当たる。現在の法律では、「高い放射線量の少量の汚染」しか想定しておらず、環境中への膨大な放射性物質の放出に全く対応できない。汚染は刻々と変化しており、放射性物質がどこに集まるか予測がつかない。従来の法律にとらわれない臨機応変な対応が求められている。
 チェルノブイリの事故では、子供の甲状腺がんが増えていると証明されるのに20年かかった。子供を守る観点からは、厳密な疫学的な結果が出るのを待つのではなく、今後、どんな障害が起きるかを予測し、それを防ぐことが重要だ。
 半減期が30年と長い放射性セシウム137の被曝対策を進めなければならない。子供の尿からセシウムが検出されたことが報告されている。セシウム137は、もともと自然には存在せず、核実験や原発によって生じたものだ。尿中から出るようなことが当たり前になってはいけない。
 南相馬市の要請を受け、幼稚園や学校の除染を行っている。支援に入ってわかったのは、地域を一律の値で代表させるような線量計測は、ほとんど意味をなさないことだ。
 たとえばグラウンドでは毎時1・2マイクロ・シーベルト程度なのが、校舎の屋上の排水溝では同33マイクロ・シーベルトと高い放射線量を示すケースもあった。
 自分の住んでいる地域や自分の家の放射線量がどうなのか、住民の不安に応える体制を、自治体は早急にとってほしい。放射線量を細かく測定し、住民とともに対策を考えることが重要だ。農業用の無人ヘリコプターを活用し、空からの測定も同時並行で進めれば、詳細で広範囲の放射線量マップも作製できる。
 食品の放射能検査体制は大きく立ち遅れている。最新技術を投入して、迅速かつ効率的に食品の放射能汚染を測る機器を開発し、年内をめどにすべての食品を正確に測定できる体制を整えるべきだ。
 緊急的な除染には限界があるため、長期的な視点から、民間の最新技術を結集した除染研究センターを被災地に設け、土壌の本格除染を行う必要がある。放射線の影響を最も受けやすい、福島の子供や妊婦を守るため、力を合わせて取り組まなければならない。

(田村良彦)

■ 日野原重明先生の特別講演(2011年7月:読売新聞)

 被災者を励ますために結成された「よみうり元気隊」の一環で、聖路加国際病院(東京)理事長の日野原重明さんが6月12日、福島市のあづま総合体育館の避難所を訪れました。「健康セミナー」と題した特別講演で、元気に長生きするための知恵を伝授しました。特別講演の詳しい内容をお伝えします。

日野原重明(ひのはら・しげあき)
 1911年山口県生まれ、1937年京都帝国大学医学部卒業、41年聖路加国際病院の内科医となる。1998年、東京都の名誉都民、99年文化功労者、2005年、文化勲章を受章。今年10月に100歳を迎える。

(1)病気経験したから、患者の気持ち分かる

 今日はみなさんに、どうすれば健やかに長生きができるかという話をしたいと思います。この中で90歳を超えた方はおられますか?(手を挙げる人なし) 85歳を超えた人は? 80歳を超えた人は?
 みなさん若いのですね(笑い)。75歳を超えた人は? ちょっと手を挙げられましたね。65歳を超えた人は? まだまだお若い方もおられますね。
 1947年(昭和22年)、約70年前の日本人の平均寿命は男子50.06歳、女子53.96歳でしたから、当時は人生わずか50年と言われていました。
 100歳以上の人は、60年前にはわずか125人でした。ところが今は、なんと4万4000人を超えました。私は今年10月に100歳を迎えますが、私以上の年齢の人が4万4000人もおられるのです。そのうちの8割が女性で、2割が男性です。将来は100歳以上の方はもっと増えてくると予想されています。
 男性の平均寿命が女性に比べて約6歳少ないのは、若い時に無理をするからです。女性が長生きするのは、子供を産むという役目を持っているので、神様が女子の命を長くして下さったのかもしれません。
 私は10歳の時に腎臓炎になりました。腎臓炎という病気には今でも薬がありません。急性腎臓炎は、ただ静かにして、たんぱく質をあまり食べないで過ごすしかありません。主治医の先生から「1年間は運動をやめなさい」と言われました。私の母がそれをかわいそうに思って、「重明にピアノを習わせよう」と言いました。私は病気になったために、ピアノを習うという機会が与えられました。だから、私は医者でありながら音楽的な活動もするようになったのです。
 私は京都帝国大学医学部に入学しましたが、2年に進級する時に肺結核に罹りました。その頃は結核に効く薬がありませんでした。ただ安静にして寝るだけです。8か月の間トイレにも行けないほどでした。
 毎日寝たままですから、腰が痛くてしょうがない。そのような時に母が腰の下に手を差し入れてくれると、なんとなく楽になります。私は医者になってから、長い間病床にある患者さんを診察する時には、患者さんの腰の下に手を入れてあげたりします。患者さんは、「先生にそんなことをやっていただくのは・・・」と遠慮されたりするのですが、私はそうされると体が楽になることを知っていますから、ついそのようにしてしまうのです。このようなことは病気をしたお医者さんでないと分からないことではないでしょうか。私は病気を経験したから、患者の気持ちが分かるのです。

(2)被災者の経験、日本の役に立つ

 それと同じように、このたびの東北の大震災と津波と原子力発電所の放射能に悩まされた経験をしていない人は、その悩みや苦しみが分からないかもしれません。ここに来られたみなさんは、震災と原子力発電所の事故で避難してこられました。そのみなさんの経験が、日本のためにとても役に立つのです。不幸な経験ではあったけれども、これから先の日本は、再び震災に遭遇するようなことがあれば、皆さんが耐えたその経験が力になるのです。つらい経験をした人だけが、つらい立場の人を励ますことができるのです。皆さんが受けた苦難は、必ず将来に生かされることがあるということを覚えていてほしいと思います。
 苦難に耐えるということはどういうことかというと、雪が降って笹の葉に積もると、笹の葉は雪のために葉を垂れますね。「冬きたりなば 春遠からじ」という言葉があります。雪の重みに耐えている笹の葉は、春が近づいてだんだんと雪が溶けてくるのをじっと待っているのです。しなった笹の心は、ひたすら耐える心でしょう。耐える中で、雪がだんだん溶けてきて、頭をもち上げる日が必ずくるのです。みなさんの苦難が解決される日が必ずあると信じて、今の苦難に耐えていただきたいと思います。
 私は長い間、医学生や看護師の教育に携わってきました。
 私はいつも冗談めかして若い彼らにこう言います。「君たちは死なない程度の病気をしたほうがいいですよ」と。苦しいこと、つらいことに耐えた経験があると、患者さんの苦しさやつらさがわかる良い医師やよい看護師になれるからです。
 皆さんは、不安に耐えて、ここに避難してこられました。
何年避難をつづければいいのかまだ分かっていないのです。放射能の害がまだ十分に分かってないからです。
 私はチェルノブイリ原発事故の視察に行きました。子供は放射能の害を受けやすいので子供にどういう病気が出るか10年間調べる調査に加わったのです。
 すると、放射能を受けた子供は、そうでない子供の1.8倍の割合で甲状腺のがんになることがわかりました。放射能を受けなくても、甲状腺のがんになったり白血病になったりはするのですが、放射能を受けた子供は1.8倍高いということが分かったのです。
 甲状腺がんになっても、検診で早く発見して手術をすれば治ります。白血病は、昔は治らなかったのですが、今は骨髄を移植すれば、あるいは赤ちゃんが生まれた時の母親の血液(臍帯血)を移植しますと治ります。子供の白血病はきちんと治療を受ければ治すことができます。
 広島の原爆ではそういうことが分からなかったから、被爆した人は骨髄で白血球を作ることができず生き延びることができなかったのですが、今は、早く発見すれば白血病は治すことができるようになりました。

(3)音楽には癒しの力がある

 治りにくい病気としては、認知症はなかなか治りにくいと言われています。
 認知症という病気は、物忘れがひどくなります。「あなたのお名前は?」と聞いても、名前が言えない。「ご主人の名前は?」と聞いても、言えないし書けない。こういう極度の物忘れをするのが認知症です。
 認知できない患者を、厚生労働省は「認知症」という病名にしました。夜、よく眠れないのは不眠症といいます。不眠症の患者は睡眠病といいません。それなのに、認知できない人を認知症というのはちょっと名前の付け方がおかしいのではないかと思います。
 外国では、認知症の病気を研究した人の名前をつけて、「アルツハイマー病」といっています。
 アルツハイマー病に効く薬がだんだん開発されてきました。これらも使い方によっては効果があるとは思いますが、私はアルツハイマー病には音楽療法が効果的だと思っています。私は日本音楽療法学会の理事長をしているのですが、音楽を認知症の人に聞かせます。例えば「故郷(ふるさと)」というだれでもよく知っている唱歌があります。「うさぎ追いしかの山、こぶなつりし」と歌うと、自分の名前も言えない、自分の名前も書けない人でも、メロディーが聞こえてくると、そのうちに言葉が浮かんでくることがあります。
 子供の病気に「自閉症」というのがあります。自閉症の患者にも音楽療法士が一緒になって歌ったり楽器を演奏したりすると、内にこもっていた心がだんだん解けてきて、話をするようになったりすることもあります。「どうしてつらいか」ということを音楽療法士と話をするようになれば、音楽療法士はそれをお医者さんや学校の先生や両親に伝えて、どうすればよいかという対策を考えることができます。自閉症には今のところいい薬はないのですが、音楽療法は非常にいいと思います。歌うことによって脳が活性化されるのでしょう。音楽には癒しの力があるのです。
 私は医者ですが、ピアノを弾いたり合唱を指揮したりすることがとても好きです。したがって、医療と音楽を結びつけて、音楽が病気に効果があるということを実証するために、いろいろと症例を集めているところです。

(4)上手に寝る方法とは?

 私は今までは1週間に1回は徹夜をしていましたが、100歳まではそれでもよかったけれども、100歳になってからもそれをやるのはちょっと無理ではないかということで、徹夜はせず、5時間は寝るようにしています。
 私は15年前から、上手に寝る方法を考えました。
 寝つきの悪い人は、仰向けで寝るからです。
 動物に不眠症があるとは聞いたことがありません。それは、動物はうつ伏せになって寝るからです。
 みなさんも仰向けで寝ていると、これから先どうしたらいいのか、仕事はどうなるのか、子供の教育はどうすべきなのかといろんな心配が湧いてきます。小さなタオルかあるいは羽毛の薄い枕に顔を横向きにしてうつ伏せになって寝ますと、私の場合は2分以内に熟睡します。そして朝は6時に眼が覚めます。
 うつぶせで寝ればいびきはかかなくなります。
 それから肥満の人は、夜中に呼吸が止まることがあります。だから人工呼吸器で息をさせるのですが、うつ伏せになると呼吸が止まりません。
 お相撲さんや妊婦は仰向けに寝ると苦しいので、自然にうつ伏せに寝るようになっています。うつ伏せに寝るといびきはかかなくなるし、胃の状態もいい。食べてすぐ寝ると悪いといわれていますが、うつ伏せなら胃も気持ちが悪くなったりしませんから、胃の薬はいらないということになります。
 お小水が出にくい人も、うつ伏せになると出やすくなるということもあります。

(5)上手に息を吐くことが健康法

 「生きる」ということは、「息をする」という言葉から生まれました。「生きる」ということは「息をする」ということです。そして、「息をする」というのは、息を吸うのではなく、息を吐くことです。上手に息を吐くことが健康法です。
 きょう歌を披露してくださった池田美保さんのように、声楽家は歌を歌うときには、深い呼気によって肺の中にある炭酸ガスを全部吐き出すのです。そして、一瞬息を吸うだけで酸素を体に取り込みます。
 私が知っているある声楽家は、スポーツジムでトレーニングを受けていたのですが、ジムのプールで泳いでいる水泳選手の呼吸の仕方が下手なことに気づいて呼吸の仕方をコーチしたそうです。クロールで泳いでいるときに少しずつ息を吐いていき、肺が空っぽになったところでパッと息を吸うように教えた。すると非常にいいタイムが出た。それを知ったジムの経営者は、「あなたはコーチが上手だから、声楽の先生をするよりも高い給与にするからぜひコーチに来てください」と言われて、この人は声楽をやめてコーチになったといっていました。
 座禅の呼吸やヨガの呼吸は、息を吐くのに時間をかける練習をします。
 テレビ体操では「息を吸ってー、吐いてー」と指導していますが、それは間違っています。「吐いて、吐いて、吐いて、吸う」ことです。それを練習するには、階段を上がる時がいいのです。
 私は忙しくて運動不足ですから、駅に行った時にはエスカレーターに乗らずに階段を上ります。 
 若い人がエスカレーターに乗って上がってきますと、私はそのそばで階段をタタタタタと上がっていくのですが、その上がり方には、「吐いて、吐いて、吐いて、吸う」というようにやります。私が上階に着いた時に、その若者はまだ3分の2くらいのところにいるのを見ると、「やったなー!」という達成感を覚えます。それが私のエネルギーになるのです。「やったぁ!」という言葉が口をついて出ます。この達成感を持つことが、ひとつの健康法だということです。階段上がる時には、呼吸は「吐いて、吐いて、吐いて、吐いて、吸う」。これを実行してみてください。「ギブ・アンド・テイク」という言葉があります。その言葉通りに、まず始めは出すことです。それから儲(もう)けることです。会社も、先に儲けようとするのはだめです。呼吸も、まず吐き出すことが重要です。

朝起きたとき、爽やかな気持ちになるには?

 みなさんは、避難してこられて環境が変わられました。しかし、避難している間も、健やかに生きる方法があります。私が15年前から自分で実行していることですが、朝起きたときに、頭が痛いとか、胃がもたれるとか、心臓の具合がおかしいなどと考えるのではなく、「ああ、今日もまた与えられた」と考えることです。すると、朝起きた時に爽(さわ)やかな気持ちになることができます。朝起きて今日一日何もすることがないということになると、爽やかな気持ちにはなりません。爽やかな気持ちで目覚めるのは幸福です。お金があるよりも、朝起きた時に「今日はどんな日にしようか」という爽やかな気持ちを持つことができれば、こんなにいいことはない。だから皆さんは朝の時間を大切にしてください。
 うつ病の時には、朝なかなか起きられず、ついお昼になってしまったりします。朝、爽やかに目覚められる人はうつ病にはなりません。
 100歳になるまで医者として探り出して得た奥義を、私はみなさんに提供します。みなさんは、これをヒントにして生活の仕方を変えてみてください。朝起きたら、気持ちをもっと刷新しようと考えてみてください。

(6)今している健康法は?

 質問があればお聞きしましょう。
 Q:健康法はいま何をされていますか?
 A:私の身長は168センチでしたが、年を取ると背骨の間の軟骨が平たくなって、クッションが縮み、今は160センチになりました。
 体重は30歳の時に60~62キロでしたが、今も60~62キロを維持しています。

30歳の時の体重を保つため、カロリーを制限

 30歳の時の体重を保つためにはカロリーを制限することです。それから動脈硬化を止めるには、植物のヒマワリや、オリーブオイルがいい。お肉や魚はたんぱく質で、脳の働きに必要ですからしっかり食べなくてはなりません。
 カロリーを減らすためには、ご飯とか麺類、あるいはお菓子やケーキなどの甘いものを食べ過ぎないことです。果物は甘みの少ないもの、バナナなんかは非常にいいですね。
 歩く時にひざが痛い人は、プールの中で歩くといい。歩くことでエネルギーを使います。
 糖分、でんぷん質とかお砂糖はなるべく少なく。それが多いと糖尿病や心筋梗塞になることがあります。毎日体重計に乗って、30歳の時の体重に戻すように努力することです。
 そしてビタミンもしっかりとってください。ビタミンBの中にある葉酸はブロッコリーに非常に多いですね。レタスにもあります。青い野菜やブロッコリーを十分にとりますと、長寿になるということが最近分かってきました。
 アメリカでは食パンの中にブロッコリーの粉が入っていたりします。日本はそこまでにはなってないので、緑の野菜、ブロッコリーなどをとることです。それにオリーブオイルかごま油などのドレッシングをかければいい。ただしヤシの油はよくない。
 私は朝起きて、オリーブオイルをスプーンに一杯(約15cc)ジュースに入れて飲みます。それから、砂糖を入れないミルクコーヒーに、大豆からとったレシチンというのをティースプーンに2、3杯入れて飲みます。そしてバナナ1本。これが朝食です。
 お昼は牛乳とクッキー2、3枚。
 「それで夜の8時まで食べないで、おなかはすかないのですか」と聞かれます。おなかがすいたと感じるのは集中して仕事をしてないからです。私は集中して仕事をやっていますから、空腹感は覚えません。だから昼は軽食なのです。夜、家に帰っても空腹感はないのですが、テーブルに座ったとたんに猛烈な食欲が湧き起こります。
 みなさんはパーティーに行ったりしますと、3000円の会費を払ったからといって4500円分食べようとするのではないでしょうか。これを私は1500円分くらい、サラダとおすし2、3個くらいにするので健康が維持できているのかもしれません。

運動して筋肉を使う

 そして運動することです。運動することによってカロリーを使い、ヨーグルトを食べることで筋肉をしっかり保つ。筋肉は使わなければすぐ衰えます。だからなるべく筋肉を使うことです。
 最近、私は筋トレをやってみようと思って、近くのスポーツ店で筋トレの握力を鍛える道具、手首足首に巻き付けるリストウェイトやチューブを買い、自己流でしました。ところがあまり欲張って筋トレをやったもので、肉離れを起こしてしまいました。そこで作った俳句です。

「白寿過ぎ 筋トレやり過ぎ 肉離れ」

 そういうことで、この頃は筋トレではなくストレッチをしています。ストレッチのパーソナル・トレーナーが自宅に来て指導してくれます。筋肉を伸ばしたり、体を曲げたり、股(また)を広げたりします。25度しか広げられなかったのが、45度まで開くようになりました。90度になるように頑張ろうと思います。それ以外に毎朝目が覚めたら30分自分でストレッチをしています。
 ですからみなさんも、落ち着かれるまで、この仮住まいでもできることを見つけて、それをやってみていただきたいと思います。

■ 震災と子どもの健康拾い読み

★ 被災地の赤ちゃん・妊婦、体温める(2011年3月17日 読売新聞)

 被災地には、妊娠中の女性や赤ちゃんを抱えた産後の母親もいる。妊産婦や乳幼児は環境変化の影響を敏感に受けやすい。避難所など非常時の生活が続くなか、周囲も心配りをしてほしいと専門家らは助言している。
 「寒い被災地では、赤ちゃんが冷えないよう、しっかりと保温してあげることが大事です」と話すのは、3人の子どもを持つ「危機管理教育研究所」(横浜市)の国崎信江さんだ。
 救援物資などの入っていた段ボール箱を、ベビーベッドとして再活用する方法を提案している。ミカン箱程度の箱の中に毛布を敷き、赤ちゃんを寝かせる。上面は開けておき、見えやすいところに「赤ちゃんがいます」などと、大きく書いておくと、周囲の人に分かりやすい。
 「赤ちゃんの体をタオルなどで巻いてからレインコートやラップなどで覆ってやれば冷気を遮断できる。手足をさすって血行をよくしてあげるのも効果的」と国崎さんは助言する。
 兵庫県立大教授の片田範子さん(小児看護)は「赤ちゃんが少しでも快適に過ごせるよう工夫を」と呼びかける。
 お風呂に入れることが難しい間は、汚れやすいお尻や口の周りなどをガーゼやさらしなどで度々ふいてやる。ギュッと絞らず、ある程度、水分を残した状態で優しくふき取る。おむつをつけるのは、肌に湿気がなくなってから。出来ればお湯を使い、温かい布でふいてあげたい。
 赤ちゃんの様子をよく観察することも欠かせない。「おっぱいやミルクの飲みが悪くなった場合は、すぐに避難所の係員を通じて医師や保健師に相談を」と片田さん。
 「避難生活でストレスが募ると、母乳が出なくなったり、早産になったりする。落ち着ける環境を周囲の人が与えてあげてほしい」と、日本助産師会の専務理事、岡本喜代子さんは話す。
 授乳中の母親は、自然災害の後などに母乳が出にくくなることが珍しくないが、不足分を粉ミルクで補いつつ、おっぱいを吸わせ続けることを岡本さんは勧める。「抱っこされることで赤ちゃんは安心する。落ち着くとまた母乳は出るようになるので、あきらめないで」と言う。
 また、避難所で、できるだけ赤ちゃんと母親には大部屋とは違う空間を用意してほしいと岡本さんは言う。「阪神大震災の時も、赤ちゃんを泣かせないようにと神経を使い疲れ切った母親たちがいた。妊産婦も、困った時は専門家に相談してほしい」
 同会は、無料電話相談を行っているほか、携帯メールで質問できる「助産師マタニティサポート」に無料相談窓口を開設した。同会の連絡先は、03・3866・3054。
 途上国で被災した妊産婦の援助を行ってきたNGO「ジョイセフ」(東京)の事務局長、石井澄江さんは「大規模災害の後、妊婦は緊張が高まって早産や帝王切開になるケースが多い。妊婦のストレスを軽減するため、本人も周囲も配慮してほしい」と話す。
 具体的には、おなかが張るなど異常を感じたり心配事があれば専門家に相談すること、妊婦が体を冷やさないことなどが大事だという。
 「避難生活では、生理用品が不足するなど、女性特有の悩みや困難が生じることが過去の震災体験からわかっている。女性や赤ちゃんが着替えたり安心して使えるスペースを確保することが望ましい」と石井さんは話している。

※ 厚生労働省では14日、母子手帳の交付、妊産婦や乳幼児の健康診査などについて、住民票の異動の有無にかかわらず、避難先である自治体で受けられるよう各自治体に要請した。

被災地の妊婦、乳児と母親へのアドバイス>(日本助産師会の話を基に)
妊婦
▽ 胎児がおなかのなかで元気に動いていれば大丈夫。胎動が減る、おなかが張って痛くなるなどしたら病院搬送を依頼しよう。
▽ 冷えるとおなかが張りがちになるので、靴下、使い捨てカイロ、毛布などで保温して横になろう。
乳児と母親
▽ 赤ちゃんも不安を感じるため、できるだけ抱っこして添い寝しよう。
▽ お乳をしっかり吸わせよう。一時的に母乳の出が悪くなっても、与えていると出てくる。
▽ 心配事は巡回の助産師らに相談しよう。女性同士で不安を話すだけでも気持ちが落ち着く。

Q. 避難所で哺乳瓶を十分に洗えません。どうやってミルクを飲ませればいいですか。

A 紙コップで優しく飲ませて

 使い捨ての紙コップをお勧めします。
 紙コップの半分以上の量になるようミルクを作ります。赤ちゃんの首を手で支えて縦抱きにします。紙コップを傾け、赤ちゃんの下唇にミルクの液面を触れさせます。すると赤ちゃんは自分で飲める量だけすすります。赤ちゃんの口に注ぎ込まないように気を付けて下さい。飲みづらそうな場合は、紙コップの縁を折ってとがらせてみます。赤ちゃんはたくさんミルクをこぼすと思います。タオルなどを添えましょう。
 空腹を感じてぐずり、手足を動かし始めると、飲ませにくくなります。早めにミルクをあげることが大切です。泣きやまない時は、バスタオルでくるんであげると、落ち着くことがあります
 避難所生活は大変だと思います。ストレスで母乳が出なくなっている場合は、温かいタオルなどで胸を温め、外側から乳首に向かってマッサージをしたり、赤ちゃんに乳首を吸わせたりしてください。心が安定すると、母乳が出やすくなります。(水野克己 昭和大学病院小児科医)(2011年4月4日 読売新聞)

Q&A 子供の心の傷が心配…「泣いてもいい」見守って

 小学生の子ども2人と一緒に避難所生活を送っていますが、子どもたちは今でも余震におびえています。今後、「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)が心配です。(福島県相馬市 35歳女性)
 まず周りの大人が症状を正しく理解することです。子どもが見せる初期症状に驚かないで下さい。
 主な初期症状は三つで、地震から1か月~半年の間に表れます。一つ目は夢で見るなどのフラッシュバック。二つ目は事実を思い出したくないという回避傾向。三つ目はすぐにイライラしたり悲しんだりする神経過敏な状態。身体的にも頭痛や睡眠障害が表れます。
 こうした症状は人としてごく正常な反応で、抑圧するとかえって症状の悪化を招きます。泣いている子どもに「頑張れ」「メソメソするな」などと言うのではなく、「泣いてもいい。誰でもそうなる」と許容し、守ってあげるという気持ちが大切です。
 親や教師などの周りの大人がしっかり支えてあげて下さい。(鹿児島純心女子大大学院 久留一郎教授)(2011年3月27日 読売新聞)

Q&A 妊娠8か月どうすれば?

 妊娠8か月で避難所生活を送っています。ここでの暮らしが長く続くと、身体的・精神的負担が心配です。どういったことに気をつければよいでしょう。(福島市 28歳女性)
 避難所生活のストレスは流産、早産のリスクを高めます。少しでも負担を軽減するために▽重いものは持たせない▽体を温める以外に毛布もう1枚で腰近辺を温める▽塩分を取りすぎないよう少量に分けて食事をし、水分を多めにとる――など、小さな気遣いを本人も周りの人たちも意識して下さい。妊婦は一般の方の2倍、3倍もの不安を抱えて過ごしています。市職員ら現場のリーダーを中心に「お互い助け合おう」という雰囲気こそ大事です。
 体調に異変があった場合は安静にして最寄りの救護所に運んでもらって下さい。救護所は地域防災計画に基づいて作成された防災マップに掲載されており、医師、看護師が集まるよう定められています。医師会の情報網も頼れるはずです。(危機管理教育研究所 国崎信江所長)(2011年3月14日 読売新聞)

避難生活 感染症防ごう

インフルエンザなど注意「8か条」

 震災の避難所などで、インフルエンザや肺炎などの感染症が広がる危険性が高いことから、専門家らが「感染予防のための8か条」を作成した。被災地での実践を呼びかけている。
「避難所生活で重要になってくるのが感染症予防の対策です。抵抗力が弱まっている高齢者や子どもなどを中心に、インフルエンザなどが一気に広がるリスクがある」。東北大学教授の賀来満夫さん(感染制御学)はこう話す。
 賀来さんらは、仙台市内の避難所を回って被災者の健康状態をみているが、せきや発熱などの症状を訴える人が急増していることを受け、感染症予防のための知識を被災地で広げる必要があると判断。「8か条」を作成し、東北厚生局や宮城県医師会などを通じて広く告知し始めた。
 下痢や吐き気、嘔吐などの症状が出る「感染性腸炎」を防ぐために守りたい4点と、風邪やインフルエンザ、気管支炎、肺炎などの感染拡大を防ぐための4点をまとめた。飲料水についての注意や、早めに医師に相談した方がいい症状などを挙げている。
 賀来さんは「避難所では、寒いこともあり皆が身を寄せ合って暮らしている。そのため感染拡大しやすい状況だ。発症や感染を防ぐために、ぜひ出来るところから実践してほしい」と呼び掛けている。

感染予防のための8か条

感染性腸炎などを防ぐ
 〈1〉可能な限り加熱したものを食べる
 〈2〉安心できる水だけをきれいなコップで飲む
 〈3〉食前、トイレの後は手を洗う。アルコール消毒薬を使ってもいい
 〈4〉おむつは所定の場所に捨て、よく手を洗う

インフルエンザなどの感染拡大を防ぐ
 〈5〉せきが出る時はつばなどを飛ばさないよう、口を覆う
 〈6〉熱っぽさ、せき、嘔吐、下痢などの症状がある時は避難所の係員に相談を
 〈7〉症状がある人、介護する人はなるべくマスクをする
 〈8〉せきがひどい、黄色いたんが多く出る、息苦しい、呼吸が荒い、ぐったりする、顔色が悪いなどの症状は肺炎の可能性も。早めに医師らに相談する。

(2011年3月24日 読売新聞)

■ 震災関連病(2011年7月:読売新聞)

(1)大量の粉じん 肺炎急増

 宮城県石巻市に住む男性(58)は、東日本大震災の津波で自宅の1階が浸水した。避難所で生活したが、家財道具の片付けや、ヘドロまみれの部屋の掃除のために、毎日自宅に通った。
 4月半ばからは自宅で暮らし始めたが、せきやたんに悩まされた。風邪薬を飲んでも良くならない。数十メートル歩くだけでも息苦しく、5月半ばに石巻赤十字病院を受診。感染性の肺炎が疑われ緊急入院し、抗生剤を投与された。しかし息苦しさなどは治まらなかった。
 入院から10日後、内視鏡などを使って肺の組織を取り出し、顕微鏡で調べる検査を受けた。診断は、感染性の肺炎とは異なる「器質化肺炎」。この肺炎には抗生剤は効かない。
 津波が被災地に運んだヘドロには、津波がのみ込んだ車や船の油、産業廃棄物などの有害物質が含まれている可能性があり、乾燥すると大気中に粉じんとして浮遊する。男性も自宅の掃除などで、これらを吸い込んだとみられた。
 同病院呼吸器内科に、震災当日から2か月間で緊急入院した患者は316人。昨年同時期の3倍だ。このうち肺炎は190人に上り、前年の4・3倍に急増した。気管支ぜんそくの発作も3・6倍の25人だった。
 同科部長の矢内勝さんは「発症原因の詳細な分析は難しいが、患者の大幅な増加には、ヘドロやがれきの粉じんが影響しているとみていいだろう」と指摘する。
 器質化肺炎の治療には、炎症を抑えるステロイド(副腎皮質ホルモン)の飲み薬が使われる。男性もこれを飲んで徐々に回復し、近く退院する予定だ。
 同病院は5月と6月の2回、医療従事者や復興作業の関係者を対象に、マスクの装着法などを学ぶ講習会を開いた。使ったのは、粉じんを95%以上カットする「防護マスク」。コンビニエンスストアなどで販売されている不織布マスクでは粉じんを防げないからだ。防護マスクは大手ホームセンターなどで入手できる。
 今後、夏休みを利用して復興作業にあたるボランティアらが、十分な防護をせずに入るケースも想定される。北里大学助教(公衆衛生学)の太田寛さんは「大量の粉じんが発生する場所にはできるだけ近寄らないこと。がれきの撤去や片付け作業を長時間行う時は、必ず防護マスクを着用すべきだ」と話す。
 東日本大震災による生活環境の変化やストレスで、元気な人が病気になるケースが増えている。こうした「震災関連病」の現状と対策を報告する。(2011年7月15日 読売新聞)

(2)塩分過多、不眠 血流悪く

 宮城県気仙沼市内に住んでいた女性(64)は、今年3月の震災で、経営していた民宿と自宅が流され、市内の親類の家に避難した。
 食糧が十分になく、近所の住民らで食材を持ち寄り、おにぎりなどを作ってしのいだ。1日1食は、支援物資として配給されたカップ麺。度々襲う余震で、眠れない日々が続いた。
 4月半ば、仙台市内に住む長女を頼って転居し、食事や睡眠も十分にとれるようになった。ところが、動悸(どうき)や目まい、吐き気などの症状が表れた。6月初めの夜には、体に力が入らず手足も動かせなくなった。
 東北大病院に救急搬送され、X線写真を撮ると、肺に水がたまっていた。心不全の典型的な状態だった。
 1995年に発生した阪神大震災の調査では、心筋梗塞など心臓病の死者が、震災後3か月間で前年同期の1・45倍、脳梗塞などの脳卒中も1・87倍と増加。不眠や運動不足、即席麺など塩分の多い食事で、血圧の上昇や、血液が固まりやすくなることなどが原因と指摘された。
 東北大病院の循環器内科で、今回の震災後1か月間に緊急入院した心不全の患者数は29人。震災直前1か月(9人)の3倍を超えた。うち28人は、避難所生活を送るか、自宅の電気や水道が止まるなど、日常生活に大きな影響を受けていた。
 女性は2007年に、同病院で「心房細動」と診断されていた。心臓上部の心房が不規則に震える不整脈だ。その後は、薬を飲んで不整脈の発作は抑えられ、元気に過ごしていた。
 1か月半の避難生活の間も薬は飲んでいた。しかしカップ麺のスープも飲み、塩味の強いスナック菓子も食べていた。今回の心不全は、こうした食生活や不眠などの疲労が蓄積して心房細動が再発、血流が悪くなって起きたと考えられた。
 「大変な時にぜいたくは言っていられない。塩分が多くても、食べられる時に食べなければと思った」
 女性は緊急入院した約2週間後、不整脈の原因となる心臓上部の筋肉を電気で焼き切る治療を受け、7月初めには退院した。
 東北大の心不全の患者は減少傾向にあるが、現在でも月3、4人はいる。足の静脈に血栓ができて肺の血管に詰まる肺塞栓症(エコノミークラス症候群)や、心筋梗塞の発症も目立つ。
 同科教授の下川宏明さんは「高血圧などの持病のある人は特に注意が必要だ。塩分を控え、適度な運動と十分な水分補給を心がけてほしい」と話している。(2011年7月18日 読売新聞)

(3)精神的不調 回復焦らず

 岩手県下閉伊(しもへい)郡内の女性(38)は、震災当日、勤め先の宿泊施設の2階まで津波が浸水したが、辛くも3階まで逃げて難を逃れた。
 職は失ったが、幸い、自宅や家族4人は無事だった。新たな就職先も決まった。しかし6月初旬には、息苦しく体がふらつき、立っているのがつらくなった。出勤初日の同月中旬、がれきを見ると体がこわばり、車の運転も怖くなった。
 同県宮古市の「たかはしメンタルクリニック」を初めて受診。院長で精神科医の高橋幸成さんの前で、抑えてきた感情があふれ、泣き崩れた。女性は「家族を亡くすなど、もっとつらい体験をした被災者はたくさんいる。自分は精神面は大丈夫と思っていたのに、今ごろ苦しくなるとは想像していなかった」と話す。
 同県釜石市の女性(33)も高橋さんを受診した。母子家庭で、一人息子も自宅も無事。しかし、変わり果てた土地を見ると、大勢の人の死を実感し、「『なぜ自分が生き残ったのか』と苦しくなる」と打ち明ける。
 高橋さんによると、震災後2か月ほどは、自宅や家族をなくした被災者らが多く受診した。しかしその後は、2人の女性のように、自宅や家族が無事だった被災者の受診も目立つ。
 高橋さんは「大きな自然災害では、人命や建物の喪失に目が奪われがちだが、激しい揺れを体験したり、家屋が流される様子を目の当たりにしたりするだけでも、恐怖心が心の傷となって刻まれる」と指摘する。加えて、「自分だけが生き残ってしまった」という自責の念もわいてしまう。
 国立精神・神経医療研究センター部長の金吉晴さんは「こうした苦しさの多くは、異常な体験に対する正常な反応で、被災の程度とは関係しないこともある。多くの場合は2~3か月で自然に回復する。決して焦らず、周囲も焦らせないことが大切だ」と強調する。
 また、災害直後ではなく、数か月過ぎて生活が落ち着いた頃に不調が表れることもよくある。精神症状とは限らず、目まいや過呼吸、胃のむかつきなど身体症状の場合も多い。しばらく様子を見た上で、心身の不調が数か月以上長引くようなら、身近な医療機関を受診するといい。
 金さんが勧める不安の和らげ方は、体の力を抜き、1回10秒程度の深呼吸を5~10分間繰り返すこと。カフェインは不安やいらだちを助長させやすいので、コーヒーやお茶、栄養ドリンクには注意したい。(野村昌玄)

(2011年7月19日 読売新聞)

■ ルポ2011:被爆医師の半世紀(2011年7月:毎日新聞)

1 85歳「患者は仲間」

小さな体、大きな信頼

 まだ夜の明けきらぬ早朝4時過ぎ、大阪府豊能町に住む小林栄一(85)の一日は静かに始まる。5年前に75歳で亡くなった妻をまつる仏壇に手を合わせ、届いたばかりの新聞に目を通す。電車で座れるよう、5時半には自宅を出発する。「最近、右太ももが痛くて少しつらい」と漏らしつつ、身長154センチ、体重47キロの小柄な老人は、駅までの長い下り坂を20分かけてゆっくり歩いていく。四つの電車を乗り継ぎ、2時間半後、ようやく到着したのは大阪市此花区の「此花診療所」。小林が51年間、所長を務めてきた場所だ。
 85歳にして現役の医師。66年前の夏、長崎で原爆の閃光(せんこう)を見た被爆者でもある。大阪の下町に根付くこの診療所で、被爆者医療に力を注いできた。これまで診察してきた被爆者は府内外の延べ5000人以上。現在は週2回、被爆者の相談や診察を担当する。
 診察開始の午前9時。受付では既に多くの患者が小林を待つ。白衣をまとった小林は、きりっと引き締まった表情になり、普段より少し大きく見える。近所に住む崎原幸子(83)が長女(47)に付き添われて診察室に入ってきた。「調子どう?」。カルテに目を走らせていた小林が顔を上げ、崎原にほほ笑みかける。「足が痛いんです」
 ベッドに寝かせた崎原の足の状態を確かめた後、小林は崎原の背中を抱きかかえ、起き上がるのを手伝った。「体が重いわな」とぽつりつぶやくと、崎原と長女から笑いが起こる。白内障の手術を受けるべきか、前回訴えていた腹痛の経過、めまい……。次々と出る崎原の相談に、小林は一つ一つ丁寧に答える。40年来の患者との掛け合いは息がぴったりだ。
 崎原は17歳の時、広島の爆心地から1・1キロの自宅で被爆した。1カ月後に姉のいた大阪に移り住み、30歳で結婚、2人の子どもに恵まれた。しかし、被爆後はずっと疲れやすく、頻繁に発熱した。少し動いてもすぐに横になるため、働きに出ることもできなかった。どの病院に行っても「原因不明」で済まされるばかり。しかし、小林は違った。自身も被爆者であると明かし、どんな訴えにも真剣に耳を傾け、わずかな変化も見逃さない。
 崎原は「同じ被爆者で親身になってくれ、偉ぶることなく、よく話を聞いてくれる。一度行ったら、離れられんようになった。私の体を一番分かってくれている」。長女も「優しくて、声を上げて笑ってくれる。診察室がぱっと明るくなる」と絶大な信頼を寄せる。
 患者は途切れることなく、この日診察が終わったのは予定の正午を大幅に過ぎた午後1時ごろ。それでも疲れを見せない小林に、患者から信頼を得る秘訣(ひけつ)を問うと「特にないよ。被爆した仲間だと思って接してるから、患者も『自分を分かってくれる』という気持ちになるんだと思う」。すべてを包み込むような自然体の笑顔を見て、その答えがすっと胸に落ちた。
  ◇
 広島、長崎への原爆投下から66年。大阪の下町の診療所で被爆者医療に半生をささげてきた医師と、患者の被爆者たちの今を追う。(敬称略)

■ことば
◇原爆被爆者
 1945年8月の広島、長崎への原爆投下で被害を受けた被爆者。被爆者援護法では(1)直接被爆者(2)原爆投下2週間以内に爆心地から約2キロ以内に立ち入った入市被爆者(3)救護、死体処理従事者(4)胎内被爆者--に分類され、該当者には被爆者健康手帳が交付される。10年3月末現在、全国の手帳所持者は22万7565人。大阪府は全国の都道府県で5番目に多く、7212人。

2 生き残った者の務め

カルテ、情熱の証し

 「ずっと後ろめたい気持ちがある」。此花診療所長、小林栄一(85)は取材中、何度も繰り返した。被爆からの小林の半生をたどると、その言葉の重みが分かってきた。
 66年前の8月9日。長崎医科大付属医学専門部3年生だった小林は、病院で卒業試験を受けていた。爆心地から約700メートル。強い光と衝撃を感じると同時に机の下にもぐり込み、奇跡的に無傷だった。病院前は負傷者であふれかえっていた。治療といっても傷口にわいたうじ虫を箸で取ったり、赤チンやガーゼを当てるだけ。重傷者は次々と息絶えていく。小林ら学生は亡きがらを並べて油をかけ、ひたすら焼いた。「ぼうぜんとして何の感情もわかなかった。でも、あの臭いだけは忘れられない」。その年の12月までに同級生の3分の1以上が亡くなったという。
 戦後、福岡・筑豊の炭鉱病院で勤務した。閉山になり、医療雑誌で目にとまった求人広告を頼りに、1960年に大阪へ。その3年前に原爆医療法が制定され、ようやく被爆者への援護が始まっていたが、閉鎖的な環境にいた小林は何も知らずにいた。
 此花診療所で働き始め、小林はがく然とした。被爆地に比べて援護が行き届かず、苦しんでいる被爆者が多い現実を知ったのだ。「自分はこれまで何をしていたのか」。原爆後遺症に関する論文を読みあさり、広島、長崎の病院を飛び込みで訪れて被爆者医療を学んだ。此花区の被爆者を探して懇親会を作り、市内で相談活動も始めた。
 数え切れないほど多くの痛みを目の当たりにした。目をそむけたくなるようなケロイドに上半身覆われた男性。左右の胸が乳がんになり、乳房を切除した女性。子が白血病になり、自分の被爆のせいかと思い悩む母親……。「けが人を助けられず生き残ってしまった上、被爆者でありながら患者と同じ苦しみを味わえていない」。常につきまとう負い目が、小林を被爆者医療にのめり込ませる原動力になっていった。
 約35年前から小林を知る医療法人職員の藤原修(58)は「むっとしてて、とっつきにくい雰囲気だったが、被爆者には特別でしたね」と語る。1回の診察で150人も来る忙しさの中で、被爆者には1人20分もかけ、健康管理手当の申請に必要となる複雑な診断書も年間300~400件書いていたという。
 情熱の証しが、診療所3階の「カルテ室」にある。通常の保存期限は5年だが、小林の指示で、これまで受診した被爆者全員のカルテを保存している。「必要としてくれる被爆者がいる限り現役を続けたい。それが生き残った者の務めだから」。小林は自らを奮い立たせるように、赤茶けたカルテをめくった。【牧野宏美】(敬称略)

■ことば
◇健康管理手当
 被爆者援護法に定められた手当の一種。同法の前身、原爆特別措置法(1968年)で支給が始まった。現在、造血機能障害や肝臓機能障害など11障害に伴う疾病の被爆者に月約3万4000円が支給される。

3 原爆症…苦しみ40年

10通の手紙、心の支え

 6月初め、大阪府茨木市の元会社社長、西村辰夫(82)は、震える手で受話器を握った。「小林先生の顔が見たくなりました。近々診療所に会いに行きます」。だが、その約束はまだ果たせずにいる。電話の約1週間後、体調を崩して倒れ、入院したのだ。今は自宅療養中の西村は「(小林先生に会いたくなったのは)虫の知らせだったんでしょうかね」と力なく笑う。
 西村は約3年前、初めて此花診療所を訪れ、所長の小林栄一(85)と出会った。原爆症の認定申請について相談するためだった。
 約40年前から狭心症など数多くの病気に苦しんできたと訴えると、小林はまっすぐ西村を見つめて言った。「私も被爆者だから分かりますよ」。それまで病院に行って、被爆していると伝えてもよく理解されないことがほとんどだった。小林の言葉は西村の心に響いた。以来、折に触れて体調や感じたことをつづり、小林に手紙を送るようになった。
 中学2年の時に広島で被爆した西村は「原爆のことは忘れようと生きてきた」と言う。大学進学のため広島を離れて以来、ほとんど訪れたことはない。理由を問うと、「理屈じゃない。あの時の臭いをかぐような気がして……。ただの勝手な思い込みですけどね」と、苦しそうに体をソファにもたせながらぽつりぽつり話し始めた。
 爆心地付近に建物疎開作業に行っていた母を捜すため、被爆の翌日から火災でくすぶる市内を走り回った。ある時、ずぶっと足がのめり込んだ。泥沼に入ったかと下を見ると、腐敗した遺体だった。1~2カ月後には、爆心地付近で米軍人がおみやげ用に子どもの小さなしゃれこうべを物色しているのを目撃した。
 「当時は、ショックというよりがく然としていた。ただ、心の奥底にこびりついていて。私はそれに忠実に生きてきたんでしょうな」
 約2年前、西村は皮膚がんが見つかって手術を受け、初めて原爆症と認定された。小林は手紙で西村を励まし続けた。
 <がんと診断されると意気消沈される方が多いようですが、悲観しないで病気と闘っていく気力が一番大事です。退院後は又いろいろご相談しましょう>
 西村には、小林が「核への怒り」を支えに生きているように見える。小林からの手紙は約10通。「あなたに話そうと思ったのも先生の影響。被爆者は経験を後世に伝える責任があったと今になって後悔している」。そして、最後にこう加えた。「あなたを伝書鳩(ばと)みたいに使って悪いけど、先生に言ってください。きっと体調を整えて、秋になったら会いにいきます、と」(敬称略)【牧野宏美】

■ことば
◇原爆症認定制度
 病気が放射線に起因し、現在も医療を要する状態であることを要件に厚生労働相が認定する。月額約14万円の医療特別手当が支給される。10年3月末現在の認定者は約6400人。08年以降の基準見直しで(1)爆心地から約3.5キロ以内で被爆(2)原爆投下から約100時間以内に約2キロ以内に立ち入り--などのいずれかに該当し、がん、白血病、心筋梗塞(こうそく)などの7疾病であれば積極的に認定するとした。

4 消える底辺の声

日雇いに流れ着き

 車椅子を押されて現れたのは、頬がこけ、手足が枝のようにやせ細った老人だった。視線は宙をただよい、呼びかけても反応はない。大阪府内の精神科病院。看護師は「見ての通り、お話は全然できなくて、食事は自力でなんとかできる程度です」と話した。私(記者)はぼうぜんと立ち尽くすしかなかった。
 私が面会に訪れたのは、此花診療所長、小林栄一(85)が気にかけていた元患者の男性(77)だ。大阪市西成区の日雇い労働者で、約40年前から診療所に通っていた。無口で人付き合いが苦手だったが、小林にだけは心を許していた。
 約3年前に肝臓がんを患い、診療所に通うのが難しくなったため、アパートに近い別の診療所に引き継ぐことになった。小林は男性の4畳半一間の部屋を訪れ、男性とパイプベッドに並んで腰掛け説得した。帰る際、小林が「じゃあね」と声をかけると、男性は何とも言えず寂しそうな表情をしていたという。
 小林によると、男性は3歳の時に母と生き別れ、父は軍隊に。広島の施設で12歳の時に被爆した。15歳から運送会社や炭鉱など職を転々とし、西成に流れてきた。独身で身寄りはない。
 男性が20年以上住んだアパートの管理人の男性(67)によると、認知症による徘徊(はいかい)などがひどくなり、約2年前に精神科病院に入院したという。男性が使っていた部屋には、約20年前、丸々と太って若々しかった男性がスナックでマイクを握る写真が残されていた。「楽しい時もあったんやねえ」と管理人はつぶやいた。
 小林によると、西成・あいりん地区では1970年代、「釜ケ崎原爆被爆者の会」という組織が結成された。会長が此花診療所を訪れたのを機に、小林は彼らの診察を始め、地区の被爆者の実態調査も行った。多くが原爆で肉親を失った上、就職差別などに遭い、体の不調を抱えながら故郷を捨てていた。貧困のあまり、売血で飢えをしのぐ人もいたという。認知症の男性も会のメンバーだった。
 私は会のその後を知ろうとあいりん地区を訪ね歩いたが、よく歯茎から血を流していたという会長は既に他界し、他のメンバーも行方不明だった。唯一、生存が確認できた認知症の男性も、伝えるべき言葉を失っていた。社会の底辺で生きた被爆者の記録が、消えてなくなろうとしている。何もできない自分が歯がゆかった。
 小林に一部始終を報告すると、しばらく沈黙した後、絞り出すように言った。「かわいそうにねえ。彼の身の上や苦労をずっと聞いてきただけにつらい。どれだけ恵まれない人生だったんだろう」(敬称略)【牧野宏美】

■ことば
◇あいりん地区
 日雇い労働者が仕事を求めて集まる「寄せ場」がある大阪市西成区萩之茶屋を中心とした地域。旧地名は「釜ケ崎」。08年秋のリーマン・ショックなどの影響で日雇い労働者の求人が激減。高齢化も進み、生活保護受給世帯数は02年度の約2500から09年度には約9500に増えた。大阪府によると、西成区の被爆者健康手帳所持者数は11年3月現在155人。

5 眠れぬ夜がくる

高齢、病気そして孤独

 梅雨空の日曜日、此花診療所(大阪市此花区)の所長の小林栄一(85)は、自宅がある大阪府豊能町のレストランにいた。つえをついた老人らが続々と集まる。小林が所属する「豊能町原爆被害者の会」の年1回の総会だ。
 弁当を食べながら、話題に上るのは自分たちの健康状態に加え、福島第1原発事故の問題。「経験上、放射能の怖さは知っている。政府は大丈夫とか、すぐ収束するとか、何を言ってるのか」「小学校でやっている被爆証言でも原発の話を取り入れたい」。皆ニュースを見る度、自身の体験と重ね合わせて心を痛めている。1時間半ほどで散会した後、会長の玉本勝英(71)は「最近は会長のなり手がなくて、被爆者団体がどんどん減ってる。うちもいつまで続けられるか」とため息をついた。
 被爆から10年以上たって各地で結成された被爆者の会は、苦しみを慰め合ったり、援護の受給を巡る相談に乗るなどの役割を担っていた。小林が1964年に結成した此花区の会では、「深刻な話ばかりしてもよくない」と1泊2日の温泉旅行によく出かけた。宴会では小林自らマイクを握り、十八番の「長崎の鐘」を披露した。だが最近は会員が高齢で動けなくなり、約5年前から活動を休止している。
 家で閉じこもり、孤独を感じる被爆者も多い。小林の診療所に通う東淀川区の平野良雄(80)は4年前に妻を病気で亡くし、今は築40年以上の市営住宅に1人暮らし。布団が敷きっ放しの6畳2間の部屋で、「男一人が残るとあかんね。片付けようと思っても誰も来んから面倒になってね」と、壁にかけた妻の遺影を切なそうに見上げた。
 平野は大阪生まれ。14歳の時、疎開先の広島で被爆した。10年後に大阪に戻り、鉄工所で働いた。鉄を削っていると、貧血で意識がもうろうとすることが度々あった。小林の元に相談に行き、造血機能障害で原爆症と認定された。休みがちで、よく家でふせっていたが、朗らかな妻は一言も責めることなく、夜遅くまでパートに出て家計を支えた。「僕の体が弱いせいでよう働かせてしもた。何もええことやってあげられんかったなあ」
 妻の死後、「胸にずっと穴があいている」と平野は言う。夜になると涙が出て、なかなか寝付けない。週1回、近所のカラオケ喫茶に行って寂しさを紛らわせる。ここ2~3カ月、3日に1度は頭が痛く、朝起き上がれないという。2週間ごとの小林の診察は、まるで旧友に会うように心が休まる。小林は、よく眠れるようにと精神安定剤を処方した。「私も飲んでる。みんな一緒よ」。同じく妻に先立たれた小林にも眠れぬ夜があるのだろう。それぞれの孤独を思うと、胸が詰まった。【牧野宏美】(敬称略)

■ことば
◇被爆者団体
 1954年の米国によるビキニ水爆実験を機に原水爆禁止運動が盛り上がり、56年に被爆者の全国組織「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)が発足。援護制度を求め、核兵器廃絶運動を始めた。都道府県や市区町村単位でも多くの団体が結成されたが、日本被団協によると、高齢化のため滋賀、奈良両県の被団協が解散。市区町村でも組織の維持が難しい状況という。

6 つかんだ全員認定

患者の涙、原動力

 06年5月12日、大阪地裁の大法廷。満員の傍聴席で此花診療所長、小林栄一(85)は、原爆症認定集団訴訟の初の判決言い渡しを待っていた。「認定申請却下処分を取り消す」。裁判長が一人一人の原告について、主文を読み上げていく。原告9人分を指折り数えていた小林は「全員勝訴」と分かった瞬間、涙があふれて止まらなかった。
 小林は被爆者医療に取り組む中で、原爆症認定制度に早くから疑問を抱いていた。当初は多くが認定されていたケロイドなどが、申請数が増えるうちに次第に認められなくなった。却下という結果を患者に伝えるのがつらかった。ほとんどの患者は落胆や諦めの表情になり、「異議申し立てしますか」と尋ねても、「もういいです」と涙ぐんで帰っていく。「救われるべき人が切り捨てられている。国は被害の実態が分かっていない」
 だからこそ、集団訴訟への支援に力を惜しまなかった。医師団を結成し、意見書を書いた。欠かさず裁判を傍聴し、原告を励まし続けた。勝訴の瞬間、悔し涙を流していた患者たちの顔が脳裏に浮かんだのだ。
 小林の元に20年以上通う元原告の木村民子(74)=大阪市鶴見区=は01年末に胃がんが分かり、認定申請したが、却下された。小林に相談すると、「裁判に参加しますか。覚悟が必要ですよ」。木村は迷うことなく「はい」と答えていた。「信頼する小林先生が言うんやったら間違いないと思った」と振り返る。
 8歳の時に広島で被爆した木村は、大阪に来て15歳で住み込みの仕事を始めて以来、働き詰めの人生だった。体調はすぐれなかったが、休むこともできなかった。裁判に関わるうち、「初めて被爆者がどんなひどい仕打ちを受けてきたか分かった」。「普通のおばちゃん」(小林)だった木村だが、厚生労働省との交渉の場でも「あんたらに私らの苦しみは分からん」と口にするようになった。家族は何も言わずそっと見守ってくれた。
 木村を担当した弁護士、有馬純也(34)は02年秋に弁護士登録した直後、弁護団に加わった。原爆に特別の関心はなかったが、国による被爆者援護の実情を知るうち、「国は未解明な部分は(放射線影響が)なかったことにしようというやり方だと分かった。目の前に苦しんでる被爆者がいるのに、頭に来た」。こみ上げる怒りが、有馬を訴訟に没頭させた。
 現在も大阪では新たな訴訟が続き、有馬にとっては「ライフワーク」になった。今も集会などに顔を出す木村から、最近こうからかわれる。「先生、最初はほんま新米って感じで若かったねえ」。一人前と認められたようで、少し誇らしい。(敬称略)【牧野宏美】

■ことば
◇原爆症認定集団訴訟
 国の認定基準の抜本的改善を目指し、認定申請却下の取り消しを求めて被爆者が集団提起した訴訟。日本被団協によると、03~07年に全国で306人が17地裁に提訴。06年5月の大阪地裁判決を皮切りに原告側勝訴が相次ぎ、認定基準見直しにつながった。09年8月には政府と日本被団協の間で集団訴訟終結の確認書が交わされたが、新認定基準でも却下が相次いでいるとして大阪などで新たな訴訟が起こされている。

7 ケロイド隠し続け

抗議の認定申請

 此花診療所(大阪市此花区)所長、小林栄一(85)の元を、5月のある日、大阪府内に住む被爆者の男性(70)が初めて訪れた。原爆症認定申請の相談だった。「右半身、右側頭部にやけどをしたんですね」。小林が確認すると、男性は思い詰めた表情で頭に手をやり、右側の髪の毛をごっそりと浮かした。白く固まった頭皮には毛が生えていない。「ケロイドがあってかつらなんです」。これまで2度認定申請したが、いずれも却下されたという。
 被爆は4歳の時で、記憶はあまりない。広島の自宅前の川べりで、2歳下の弟と遊んでいる時にピカーッと光った。空は真っ黒で、川は大きく波打っていた。弟は間もなく亡くなった。
 物心ついた頃から、頭から足先までできたやけど痕に悩まされた。特に毛が生えてこない頭が気になり、学校ではずっと帽子をかぶっていた。同級生からは帽子を脱がされ、「ハゲ」「ピカドン」といじめられた。
 小学6年の時、大阪に移り住んだ。「広島、原爆は禁句でした」。正面を向いて話ができず、電車に乗る時も目立たないよう、右端の座席を選んだ。親しくなった友人にすら、「こたつの練炭でやけどしたんや」とうそをついた。「僕もあのとき弟と死んどったらよかった」と母に何度も言って困らせたという。
 19歳の時、父にかつらを買ってもらい、以前よりは人前に出られるようになった。車の修理工をしていた時に知り合った妻と結婚。子どもができた時も一人で悩んだ。「おかしな子ができたら、殺してわしも死のう。自分みたいに苦労するの分かってるから」。無事生まれたと分かり、一人泣いた。家族は気付いているかもしれないが、いまだに自分から被爆やかつらのことは明かしていない。風呂に入る時や寝る時もつけたままだ。
 かつらの維持には費用がかさむ。買い替えや修理にこれまでに2000万円以上かかり、貯蓄はほとんどない。不況で仕事が減り、老後は心細い。「かつらなしでは生きられへんのです。それでも原爆のせいやない、言うんですかね。認定基準がおかしいんちゃいますか」。男性はどうしても納得がいかない。
 近年、ケロイドはほとんど原爆症認定されていない。しかし、男性の強い憤りを感じた小林は、他の疾病も含めて申請の意見書を書いた。「難しいかもしれないけど、出してみましょうか」。小林の問いに、男性はきっぱり言った。「お願いします。だめでも、何べんでも申請します。わしなりの抗議です」
 66年たっても、男性の心の傷は消えず、むしろ深まっているように感じられた。小林は男性の思いを受け止めるように、うん、うん、といつまでも耳を傾けていた。(敬称略)

■ことば
◇原爆によるケロイド
 原爆後遺症の一種。いったん治癒した熱傷の痕の皮膚が、痛みやかゆみを伴って硬く不規則に隆起する。1946年初めから47年ごろに最もよく現れた。広島原爆資料館によると、爆心地から約2キロ以内で熱線を直接受け、火傷を負った人の50~60%に発生した。

8 背中に誓う後継者

「誰かがやらねば」

 電車の中での静かな一言だった。「被爆者の体に現れていることが原点です。そこに真実があるんですよ」。東神戸診療所(神戸市)の所長、郷地(ごうち)秀夫(63)は、此花診療所(大阪市)の所長、小林栄一(85)の言葉にはっとした。04年秋、原爆症認定集団訴訟の医師団を結成した2人は、弁護団との最初の打ち合わせを終えて帰る途中だった。
 広島県出身で、被爆した親族が白血病で亡くなった話を母親から何度も聞かされて育った郷地は、もう20年以上被爆者医療に携わっていた。原爆放射線被害の「教科書」とされる放射線影響研究所(放影研)の医療文献にも精通し、被爆者医療を自分なりに理解しているつもりだった。だが、弁護団から意見書の作成を依頼され、途方にくれた。原告の大半は、「教科書」に基づけば認定の対象にならない病気や遠距離・入市被爆の人たちだったからだ。「証言する自信がありません」。郷地が小林に本音を漏らした時、その言葉が返ってきたのだ。
 「自分は教科書に被爆者を当てはめるだけだった。間違っていたのかもしれない」。郷地は原点に立ち戻った。広島や長崎の古本屋に通い、遠距離や入市の被爆者にも急性放射線障害が出ていたとする古い文献などを探し集めた。「外車1台分」の自費をつぎ込み、睡眠時間も削って勉強に没頭した。
 その成果を基に、郷地は医師団を代表して法廷で証言した。06年の判決は、国が否定してきた残留放射線による内部被ばくの可能性を指摘し、遠距離や入市の原告も原爆症と認めた。「小林先生の一言に突き動かされた。患者に学ぶ姿勢が徹底している先生に倣い、私も頑張らねばあきません」と郷地は語る。
 郷地の姿は小林を「これで後継者ができた」と安堵(あんど)させた。さらに、小林の身近なところでも思いを継ぐ医師が現れた。西淀病院副院長の穐久(あきひさ)英明(57)だ。高齢の小林に代わり、3年前から此花診療所で診察を一部受け持っている。被爆者を診た経験はあまりなかったが、小林の背中を見て「誰かがやらなければ」と後を継ぐ決意をした。
 小さな診療所で被爆者と向き合ってきた小林は、自身の体験を大げさに話したり、被爆者医療について大上段から語ることもない。それでいて、周囲の人たちに「自分も何かしなければ」と思わせる不思議な力がある。一臨床医として、ぶれずに積み上げてきた歳月の重みが、言動ににじみ出ているからだろう。
 「原爆は遠い昔に終わった話ではない。放射線の後障害はまだ大部分が解明されていない。だからこそ、これから若い医師にも被爆者に向き合ってほしい」。胸に静かな情熱をたたえ、小林は今日も、いつもの笑顔で被爆者を迎える。【牧野宏美】(敬称略)

■ことば
◇放射線影響研究所
 原爆の放射線が人体に及ぼす長期的影響を調査するため、トルーマン米大統領の指示で広島と長崎に設立された米原爆傷害調査委員会(ABCC)を前身とし、75年に財団法人として設立された。日米両政府が共同で管理運営する。一部研究者や被爆者団体から「調査方法が被爆の影響を低く見積もっている」という指摘もある。

■ 大震災・茨城から

(1)療養型病床 北部で激減(2011年6月:読売新聞)

 激しい横揺れがしばらく続いた。3月11日、茨城県北茨城市にある広橋第一病院の病室。同市の入院患者A子さん(90)はベッドにつかまり身を震わせた。気管支ぜんそくの持病が悪化し1か月前から治療を受けていた。
 「早く逃げたい」。そう叫ぶと職員が落ち着くように声をかけた。それで冷静さを取り戻した。
 地震で同病院の建物には何か所も亀裂が入った。壁も一部がはがれ落ちた。
 同病院は慢性期の患者を専門に受け入れる療養型の医療機関だ。ベッド数は97床。震災時は満床に近い93人の患者が入院していた。
 本震の後も余震が続き、建物はさらに壊れる危険があった。診療面でも東京や福島から通っていた非常勤の医師が、交通事情の悪化で通勤できなくなり、十分な診療態勢を維持できなくなった。震災の翌日、病院長の紅露(こうろ)恒男さんは入院患者全員の転院を決断した。
 比較的症状が軽い患者は、約3キロ離れた高台にある系列の精神科病院、広橋第二病院(同市)に移った。歩行器を使えば歩けるA子さんも第二病院に転院した。
 第一病院にいた時は、病院のそばに住む娘が3日に1度、見舞いに来てくれたが、今は週1度に減った。A子さんは「第一病院に戻りたい」と漏らす。
 重症患者は災害派遣医療チーム「DMAT」が受け入れ先を探し、他の医療機関に搬送された。
 その一人、大腸がんを患い寝たきりの北茨城市の男性(84)は、県西部の下妻市にある医療機関に転院した。
 震災前は、北茨城市内に住む親戚の女性(64)が車で約20分の第一病院に週1~2回通っていた。だが、下妻市の病院までは約130キロあり、車で片道3時間程かかる。親戚の女性は「仕事があり月2回ぐらいしか会いに行けず心苦しい。一日も早く近くの病院に連れてきたい」と話す。
 広橋第一病院は取りやめていた外来診療を7月に再開する。しかし、入院患者を受け入れることはまだできない。「当直勤務を行うだけの十分なスタッフを集められない」(紅露さん)からだ。
 県北部には療養型病床が計約270床あった。広橋第一病院が入院患者を受け入れられなくなり、その約3分の1を失った計算だ。
 通常、患者は高度な医療を行う急性期病院で治療が終わると、自宅療養が困難な場合は、療養型病院に転院する。地区の多賀医師会会長、横倉稔明さんは「療養型病床が減り、急性期病院が患者を移せなくなっている。救急医療にしわ寄せがきている」と危惧する。
 東日本大震災は、関東地方の茨城県の医療にも大きな影響をもたらした。その現状を報告する。

(2011年6月27日 読売新聞)

(2)薬・器具不足 綱渡り診療

 福島県に近い茨城県北部では、震災発生の直後、医療用器具などの支援物資が届かない医療機関があった。ガソリン不足に加え、福島第一原発の事故の影響により、物流がうまく機能しなかったためとみられる。
 物資が供給されるまで医療機関は在庫などで持ちこたえた。医療物資がなくなることを懸念しながら、綱渡りの診療を強いられた医療機関もあった。
 同県北部の日立市にある秦(はた)病院では、震災が起きた3月11日、約120人の入院患者がいた。半数は寝たきりの高齢者で、水分や栄養、薬剤の点滴が必要な患者も多かった。
 翌日にかけて、ふだんの10倍の約50台の救急車も受け入れた。マスクや手袋、注射器などの在庫はどんどん減っていった。
 筑波大病院(同県つくば市)は県北部の医療機関に派遣した医師などから医療物資が足りなくなっている情報をつかんだ。医療物資がなくなれば、診療を続けることはできなくなる。同病院は3月20日、院内に物資供給の拠点となる「緊急医療材料供給センター」を設置し、支援活動に乗り出した。
 医療物資は心肺蘇生法の普及活動を行うNPO法人「日本ACLS協会」などを通じ、約8700万円相当分をかき集めた。いったん同センターに保管し、その上で県医師会などを通じ、各医療機関に送られた。
 秦病院には3月21日、マスクや手袋、点滴用チューブ、注射器などが届けられた。同病院事務部長の後藤重史さんは「他の医療機関よりも多い約2週間分の在庫があったが、支援があと数日遅れたら、診療を続けられなくなっていたかもしれない」と話す。
 同病院に入院していた女性(77)は3月25日、ぜんそくが悪化。発作を抑えるステロイドや感染症を予防する抗菌薬などの点滴を2週間、続けた。
 その結果、症状は落ち着いた。点滴に用いる医療用チューブなどがなかったら、治療を続けることはできなかった。女性は「よくしてもらえてありがたい」と感謝する。
 ただ、同センターが送ったはずの物資が4月になるまで届かなかった医療機関もあった。足りない物資の品目や分量などの情報伝達が、医師会や医療機関の間でうまくいかない面もあったためだ。
 筑波大病院救急・集中治療部副部長の安田貢さんは、「災害時の支援は時間がかかっては意味がない。今後は、県や医師会との連携を強化し、足りない物資や分量などを迅速に把握し、支援を行える仕組みを作っていきたい」と話している。(2011年6月28日 読売新聞)

(3)病院が損傷 入院を中断

 「入院できたら具合が悪くなっても安心なのに」
 胃がんを患う茨城県筑西市の鈴木良祐さん(75)は6月中旬、自宅の布団に横たわり、こう話した。
 東日本大震災が発生した3月11日、同市は震度6強を観測。発熱し、3日前から筑西市民病院に入院していた鈴木さんの病室では、テレビが床に落下した。ベッドで寝ていた鈴木さんの腹にもテレビ棚が倒れてきた。窓の外では、電柱や桜の木が激しく揺れていた。
 揺れが収まると、71人の入院患者は病院玄関前の駐車場に移動、1時間ほど待機して近くの体育館に避難した。医師が一人ひとり診察し35人は転院し、残りは自宅に帰ることになった。
 「今、体育館に避難している。迎えに来てほしい」
 同日夜7時頃、鈴木さんが自宅に電話すると、家族は驚いた。「連絡は取れなかったけれど、病院は安全だと安心しきっていました」と妻、悦子さん(69)。慌てて体育館に向かった。
 築40年の同病院は、「震度6強でも倒壊しない」とした新耐震基準を満たしていなかった。壁に亀裂が入り、使用できなくなった。
 厚生労働省の調査では、国の耐震基準を満たしている病院は全国で56・2%にとどまる。同病院は新築が検討されており、耐震補強は行われていなかった。
 同病院は、駐車場にテントを張り、3月14日に再診患者の診療を始めた。その後、プレハブを建て同24日から本格的に診療を再開した。だが、エックス線装置やMRI(磁気共鳴画像装置)は今も使えない。入院患者や救急患者も受け入れることはできていない。
 鈴木さんは転院を勧められたが、「知らない医師や看護師がいる病院には行きたくない」と断った。この3か月間は、同病院に通院したり往診してもらったりの毎日だった。
 同病院は数年前、医師不足で、173床あった病床を60床に減らした。常勤医は一時は6人にまで減ったが、現在は10人に増え、病床も90床にした。約300台だった救急車の受け入れ台数も昨年度は760台に増えた。そのタイミングで震災に見舞われた。
 病院長の石川義典さんは「地域医療に積極的に貢献していこうとしていた時に地震が起きて残念だ。だが、これを機に入院患者10人に対し1人である看護師数を7人に対し1人にすることを検討するなど、医療の質を高めたい」と意気込む。
 再興に向け、同病院は5階建ての建物の3階から上の部分を取り壊し、建物にかかる荷重を軽減するほか、今秋には50床の病床や手術室を備えた新病棟も完成させる予定だ。(2011年6月29日 読売新聞)

(4)県内の病院9割が被害

 東日本大震災は、茨城県の医療にも大きな影響をもたらした。現場でどう対応し、どんな課題に直面したのか。同県医師会長の斎藤浩(こう)さんに聞いた。

 ――医療機関の被害状況はどうだったのか。

 県北部の海沿いを津波が襲い、神栖市などでは液状化現象も起きました。
 震災は岩手、宮城、福島の3県だけでなく茨城県にも大きな爪痕を残しました。しかし、その実情は全国にあまり伝わっていません。県医師会が行った調査では、壁が落ちるなど、県内の約9割の病院で、何らかの被害を受けました。中には2億~3億円の被害を被った医療機関もあります。
 県全域で停電や断水があり、すべてが復旧するのに約1か月かかりました。MRI(磁気共鳴画像装置)などが壊れて使えなくなり、今でも検査ができない医療機関もあります。

 ――発生後の対応は。

 情報の共有や伝達を迅速に行うため、県内の医療機関を6グループに分け、患者の病状やベッドの空き具合などを報告してもらいました。この取り組みを約1か月半続け、入院患者の転院などに役立てました。
 ガソリンが不足し、患者搬送や医師の移動に支障をきたしました。県医師会は3月15日、業界団体に医療機関の車両を優先的に給油してもらえるよう依頼し、対応してもらいました。

 ――東北地方の被災者も受け入れたが。

 茨城県も被災地ですが、隣の福島県から避難してきた人たちも受け入れました。皆さん、福島第一原発の事故による放射線被曝の不安を抱えており、一時期は2000人近くの方を受け入れました。医師や看護師が避難所を巡回し、健康状態をチェックするなどの活動も行いました。
 3月14日には、水戸、日立、土浦の3保健所で被曝量の測定を始めました。一定の基準以上被曝している場合は、指定医療機関で除染などの処置を行える態勢も整えました。

 ――うまくいったか。

 被曝量の測定は希望者が対象で、約4300人が検査を受けました。健康被害が出るほどの被曝量の人はいませんでした。ただ、一部自治体で「検査をしていない避難者は受け入れない」など誤った情報が流れました。今回の対応は、1999年に茨城県東海村で起きたジェー・シー・オー(JCO)臨界事故を契機に作られた対応マニュアルを参考にしています。マニュアルが県全体に浸透していないことは残念でした。

 ――今後の課題は。

 県内の医療機関の状況を迅速に情報収集し、共有するよう努めたつもりでしたが、うまくいきませんでした。それぞれの医療機関は県外の医療機関とも患者の受け入れなどの情報交換をしています。そのため、状況が刻一刻と変わり、正確な情報を把握するのに時間がかかりました。通信網が寸断された場合に近隣県の状況も把握できるような仕組みを作る必要があります。(利根川昌紀)(2011年6月30日 読売新聞)

■ 震災に遭ったとき(2011年3月:読売新聞)

(1)透析患者 水飲み過ぎ禁物

 東北と関東に未曽有の被害をもたらした東日本巨大地震。たくさんの犠牲者が出た一方で、避難者は数十万人を超え、健康への不安は少なくない。震災に遭った時、私たちは急病やけがにどう対処し、どのように健康を維持すればいいのだろうか。

 この震災で強い不安を募らせている人たちの中に、「人工透析」を受けている患者がいる。
 腎臓は血液中の老廃物を尿として排出するが、この機能が失われると体に老廃物がたまって生命にかかわる。そこで、血液を体外に出し、きれいにして戻すのが人工透析だ。患者は週3回程度、設備のある医療機関に通って透析を受ける。
 しかし今回の地震で、かかりつけの医療機関が被災した患者は少なくない。
 自らも透析患者である全国腎臓病協議会常務理事の金子智さんは「患者の中には、透析を受ける日が1日ずれただけでも、心不全や不整脈などを引き起こす危険が高まる人もいる」と心配する。
 宮城県では、人工透析を受けられなくなった患者が、透析可能な近隣の医療機関に殺到している。中には、通常4~5時間かける透析を2~3時間で切り上げて多くの患者を受け入れている施設もあるが、対応しきれない事態も生じている。
 日本透析医会によると、宮城県石巻市の石巻赤十字病院には、1日に対応可能な130人をはるかに超える500人の患者が殺到。透析を受けられず待機する患者も出てきている。仙台市の仙台社会保険病院は12日から、24時間体制を敷いて通常の3倍近い透析を行うなど、ぎりぎりの対応を続けている。
 では、被災地の透析患者はどんなことに気をつけたら良いだろうか
 福島や茨城県、横浜市で四つの透析施設を運営する「かもめクリニック」グループ理事長で腎臓内科医の金田浩さんによると、たとえ水分をとれる場合でも、飲み過ぎてはいけない。体内に水分がたまると心臓に負担がかかり、心不全を招く恐れがあるからだ。
 また、血液中のカリウムが多くなると高カリウム血症になって不整脈の原因となる。果物や豆・芋類など、カリウムを多く含む食べ物は控えるよう心がけたい
 金田さんは「透析を受けられない期間の限度は最大でも2週間で、それ以内に死亡する場合もある。患者は、自分が透析を必要としていることを、避難所の担当者などにいち早く申し出てほしい」と呼びかける。透析に関する医療機関の情報は、日本透析医会のホームページで見ることができる。
(2011年3月15日 読売新聞)

(2)厚着して「低体温症」防ぐ

 避難所生活が長引くと、病気になる危険性が高くなる。一般的に知られていないのが、「低体温症」だ。
 寒い場所に長期間いると、体温が奪われて体を維持する機能が失われる。初期には震えや思考力の低下、重症になると錯乱状態に陥り、最悪は死に至る。2005年のパキスタンの地震では、多数の人が低体温症で死亡したとされる。
 なりやすいのはお年寄りや子ども。栄養・水分の不足、疲労などでも起きやすいため、寒くて食糧が不足している今回の被災地では発症する危険性が高い。
 東京医科大渡航者医療センター教授の増山茂さんによると、体の中心部の温度が35度以下になると低体温症とされるが、体表の温度は当てにならない。このため、最も信頼できるサインは「震え」だ。
 震えが始まったら、▽床に敷物を敷く▽厚着をし、帽子やマフラーで頭部も保温する。毛布は1人よりも2、3人でくるまる方が温まる▽しっかり食事と水分をとる――ことが大切だ。
 体が冷たいのに震えが止まったり意識がもうろうとしたりしたら要注意。すぐに病院へ連れて行く。「低体温症は気がつきにくい。ぜひ意識して、予防策をとってほしい」と増山さん。

感染症も心配だ。1995年1月の阪神大震災の後には、避難所でインフルエンザが流行した。
 避難所では、水分を多めに取るだけでなく、手洗いやうがいもしっかり行う。水が十分にない場合は、ウエットティッシュや、きれいな水で湿らせたティッシュで、手指についた細菌やウイルスをぬぐい落とす。
 せきやくしゃみをする時は、ティッシュやハンカチ、袖などで口と鼻を覆い、周囲の人から顔を背けてうつらないようにする。
 「肺塞栓症」(エコノミークラス症候群)にも気をつけたい。避難所や車の中で長時間、窮屈な姿勢を取り続けると、血流が悪くなって足の静脈に血の塊(血栓)ができる。それが流れて肺の血管に詰まり、呼吸困難などを引き起こす。死に至ることもある。
 新潟大呼吸循環外科助教の榛沢和彦さんの研究では、2004年の新潟県中越地震で避難所生活や車中泊をしていた10万~30万人のうち、少なくとも11人が発症し、4人が死亡した。
 発症予防の主なポイントは、▽起きている時は定期的に屈伸やふくらはぎのストレッチなどで体を動かす▽できるだけ手足を伸ばして寝る▽車中で寝る時は足元に箱などを置いて足と体を水平にする▽十分に水分補給する――などだ。
 榛沢さんは「体を動かす間隔は4~5時間以内を目安に、なるべくこまめに」と話している。

(2011年3月16日 読売新聞)

(3)服用薬の具体名伝えて

 「インスリン製剤が底をつきそうだ」
 15日朝、日本糖尿病協会理事で京大教授の稲垣暢也さんの電話が鳴った。知人で岩手県宮古市にある熊坂内科医院理事長、熊坂義裕さんからだった。
 インスリン製剤とは、糖尿病患者が血糖値を下げるのに使う薬で、毎日注射しなければならない。
 熊坂さんによると、同市内の多くの医療機関は診療できない状態。糖尿病患者を診療できるのは同医院と県立宮古病院だけで、インスリン製剤を求めて診察に訪れる患者が後を絶たない。
 同協会理事の菅原正弘さん(菅原医院院長)は「食事を十分取れなくても、インスリン製剤を使わなければ血糖値は上昇してしまう」と指摘する。協会は同日、メーカーを通じインスリン製剤を宮古に送った。
 被災地では、糖尿病患者が血糖値を管理し続けるのは難しい。インスリン製剤が確保されていても、十分な食事が取れない状態で普段と同じように使うと、逆に低血糖を起こす恐れがある。菅原さんは「食事の量に合わせて量を減らすことが必要だ」と説明する。
 避難所で必要な薬が手元にない場合は、担当者に伝えることも大切だ。その際は日ごろ飲んでいる薬の具体的な名前も伝える。同じ効果の薬でも複数の種類があり、飲み慣れない薬で代用すると、副作用が出ることがあるからだ。
 例えば、血圧を下げる降圧剤は種類が多く、血圧を下げる仕組みも異なる。
 菅原さんによると、血管を広げるカルシウム拮抗薬は、めまいや立ちくらみが出ることがある。体外に塩分を排出する利尿薬は、尿酸値が上がる場合がある。血圧を調整するホルモンに働くARBは、腎機能が低下した人が服用すると不整脈を起こすこともある。
 菅原さんは「飲んでいる薬の名前が分からなければ、受診している医療機関を担当者に伝えてほしい。運良く連絡がつけば、薬の名前を調べられる」と助言する。
 地震で建物が一部損壊した東北大病院では、緊急患者の診療に当たっている。てんかん科教授の中里信和さんは、知り合いの医師から「被災した患者のために、抗てんかん薬の処方をしてあげてほしい」などの相談を受けた。
 しかし、厚生労働省は地震発生翌日の12日、医師の処方箋がなくても、患者が薬局で必要な薬を受け取ることができるという通知を出した。このことが、患者はもちろん、医師にも十分に周知されていないのだ。中里さんは「知らないで困っている患者は多いのでは」と懸念する。

(2011年3月17日 読売新聞)

(4)救命まず心臓マッサージ

 長引く避難生活の中、突然、目の前の人が倒れた。声をかけても反応がなく、呼吸もしていない――。
 こんな時は、医療関係者が駆け付けるのを待たず、身近にいる人がすぐに救命措置(心肺蘇生法)を行うことが重要だ。心停止後に迅速な救命措置を行うことで、生存率が1・6倍高まるという研究もある。
 昨年改正された救命措置の新指針によると、特に訓練を受けていない一般市民が救命措置を行う場合は、口移しの人工呼吸は必ずしも行う必要がなくなった。優先すべきは、心臓マッサージ(胸骨圧迫)だ。
 まず、倒れた人の胸の脇にひざまずく。両手を重ねて相手の胸の中央に当てる。ひじを真っすぐ伸ばし、垂直に体重をかけるようにして、繰り返し押し続ける。
 押すテンポは1分間に100回以上。押した時に胸骨が沈む深さは、成人の場合は少なくとも5センチ、子どもの場合は胸の厚さの3分の1程度とされている。
 避難所では、自動体外式除細動器(AED)が設置されていないこともあるが、もし調達できたら、音声案内に従って、自動で行われる2分間隔の電気ショックを繰り返しつつ、胸骨圧迫を続ける
 日本赤十字社東京都支部保健講習係の脇浩美さんは「とにかく救命第一。怖がらずに、強く速くしっかりやってほしい」と話す。
 避難生活の中では、余震による転倒や物の落下でけがをすることもある。応急手当ても覚えておきたい。
 日本赤十字社によると、出血がある場合は、傷口をガーゼやハンカチで直接強く押さえて圧迫するのが最も確実な止血法だ。ハンカチがないなど、すぐに直接圧迫できない場合は、傷口よりも心臓に近い動脈を手や指で圧迫し、間接的に止血する。直接圧迫を始めたら間接的な止血はやめる。
 骨折した場合は、まず患部を締め付ける衣類は脱がせるか、切り広げる。折れて曲がった部分は無理に戻そうとせず、板や雑誌、傘などを添え、包帯がなければ粘着テープで固定する。
 もし、骨が皮膚を突き破り、出血が多量の場合は、清潔な布(紙おむつでも代用可能)を多くあてがい、止血に努めたうえで固定する。骨を修復しようとしてはいけない。全身は毛布などで包んで保温する。

脱臼した場合も骨折と同様、関節の変形を元に戻そうとせず、安静を保つ
 脇さんは「止血のために手や足をきつく縛ってしまうと、そこから先に血液が流れず、組織が死んでしまう。傷口や、出血の原因の動脈だけを押さえるようにしてほしい」と注意を促す。

(2011年3月18日 読売新聞)

(5)放射線量確かめ冷静に

 「関東でも放射線のレベルが高くなっているようですが、大丈夫ですか」
 今回の地震に伴う原発事故を受け、千葉市の放射線医学総合研究所(放医研)に設けられた相談電話。今月14日午後の開設以来、電話が途切れず、放射線防護などの専門家が対応に追われている。
 冒頭のような質問に対して、同研究所は「通常の何倍という表現を聞くと大変高く感じられますが、実際には健康に影響のないレベルです」などと答える。
 放射線は目に見えず、においもないだけに、不安に思う人は少なくないはずだ。
 放射線による健康への影響は、放射線を浴びた量を示す「被曝(ひばく)量」による。しかし、被曝時の状況や直後の症状からみて大量に被曝したと考えられる人などにしか、詳しい検査は行われない。
 周辺住民の場合はまず、避難所などで、放射性物質が付着していないかを調べる検査を受ける。汚染があれば、衣服を脱ぎ、シャワーや拭き取りで「除染(じょせん)」する。
 大分県立看護科学大学教授の甲斐倫明さんは「汚染検査で異常がなかったり、十分に除染できたりすれば、深刻な被曝はなかったと考えて問題はない」と話す。
 では、周辺住民以外の人は、何を基準に安全を判断すれば良いだろうか。
 甲斐さんが科学的に信頼できる方法として示すのは、原子力事業所や周辺の自治体が設置した放射線観測装置(モニタリングポスト)の「空間線量率」の値を、インターネットで確かめることだ。
 空間線量率は、各地点で放出された1時間あたりの放射線量で、たとえば、福島第一原発から約130キロ南の水戸市吉沢の数値(20日午後4時現在)は、147nGy(ナノ・グレイ)/h=0・147μGy(マイクロ・グレイ)/h。
 これは、その場所(屋外)に1時間居続けた人の被曝量がほぼ0・147マイクロ・シーベルトで、0・000147ミリ・シーベルトと換算できる。
 この値は、健康への影響が出始める放射線量(100ミリ・シーベルト)のわずか68万分の1にすぎない。
 甲斐さんは「避難したり、買いだめしたりする前に、まずこの数値を確かめ、推移する情報に注意を配って冷静に行動してほしい」とアドバイスする。
 「空間線量率」を知る方法 国や各自治体のホームページなどで公開。文部科学省の「環境防災Nネット」(http://www.bousai.ne.jp)では19道府県の観測地をまとめて閲覧できる。
★ 被曝に関する放医研の問いあわせ先 043-290-4003

(2011年3月21日 読売新聞)

(6)心のケア「聞き取り」慎重に

 大災害の時には、精神科医らによる被災者の心のケアが必要とされる。今回の地震では、日赤チームなどが活動を始めている。
 1995年の阪神大震災では、被災者の1割が、1年後も睡眠障害などの心の不調を訴えた。中には、後になって恐怖体験が繰り返しよみがえるPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しむ人も少なくない。
 だが、専門知識を持たない人が心のケアを行うと、逆に被災者を傷つける恐れがあることに注意したい。

つらい体験をした人は、話を真剣に聞いてもらうと心が軽くなる。災害の場合でも、精神科医らが被災者の体験を災害後間もなく詳細に聞き取ると、PTSD発症の予防になる――と、かつては考えられていた。ところが海外の追跡調査で、こうした聞き取りが、逆にPTSDの患者を増やすことが分かった。米国の研究機関の国立PTSDセンターは、災害に遭った人すべてが話をしたがっているわけではない、と指摘している
 兵庫教育大発達心理臨床研究センター教授の市井雅哉さんは「いま最も必要な心のケアは、避難所の環境を整え、被災者の気持ちが落ち着く場所を早急に提供することだ。仮設住宅に移る場合でも、家族や近隣住民らと近くにいられる配慮をしてほしい」と話す。
 そのうえで専門家は、被災者が悩みを自然に話したくなった時に耳を傾け、うつ症状や不安感がひどい人がいれば治療につなげることが必要だ。
 一方、首都圏に住む人にも心の不調が広がっている。
 慶応大保健管理センター教授で精神科医の大野裕さんは「症状が長い間安定していた精神疾患患者が、地震後に不安定になる例が目立つ。健康だった人が、家の外に出られなくなったケースもある」と指摘。津波の映像の繰り返しや原発事故の恐怖を伝える報道が影響している、とみる。
 大野さんによると、いま必要なのは、日常生活のリズムを取り戻すこと。「テレビの震災報道ばかりではなく、地震の前のように、バラエティー番組を見て笑うことも大切だ」と話す。 

■被災者に接する時の注意点
 (米国立PTSDセンターなどがまとめた「サイコロジカル・ファーストエイド」より一部抜粋)
 ◎被災者が体験したことや、いま体験していることを、思い込みで決めつけないでください
 ◎災害に遭った人すべてがトラウマ(心の傷)を受けるとは考えないでください
 ◎災害に遭った人々が経験したことを考慮すれば、(不眠や不安、悪夢など)ほとんどの急性反応は理解可能で、予想範囲内のものです。(起こって当然の)反応を「症状」と呼ばないでください
 ◎すべての被災者が話をしたがっている、あるいは話をする必要があると考えないでください
 ◎(何があったか尋ねるなどして)詳細を語らせないでください

(2011年3月22日 読売新聞)

■ 震災の現場から(2011年3-4月:読売新聞)

(1)呼吸器電源 確保に奔走

 その時、訪問入浴で浴槽につかっていた体が、波打つ湯と共に大きく揺れ、部屋の照明が消えた。ヘルパーに支えられた体がガタガタ震えた。
 「恐怖で熱も出たよ」
 全身の筋力が低下する筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患い、仙台市の自宅で生活を送る庄司精悦さん(52)は、体で唯一動かせる額に付けたセンサーで、巨大地震が襲ったときの思いをパソコンでそう書き出した。
 停電の瞬間、真っ先に恐れたのは人工呼吸器を動かす電源が途絶えることだった。バッテリー切れを示すアラーム音が、地震から1時間もたたずに鳴り始めた。バッテリーは通常、古い型で1時間、新しい型で7、8時間持つ。庄司さんのバッテリーも数時間は持つはずだったが、劣化していたのか、早くに消耗した。
 妹夫婦など家族が、急いで近くの消防署で発電機を借り、近所から燃料のガソリンをかき集めた。しかし、発電機は2日後に故障。救急車で東北大病院に緊急入院し、同病院が満床のため翌日、自衛隊のヘリで山形の病院に搬送された。
 庄司さんはこうして命をつないだ。電気が復旧した17日、自宅に戻れたが、「(緊急時の)電気とガソリンが一番心配だった」と振り返る。
 11日の地震直後、庄司さんら420人の患者を往診する仙台往診クリニックの川島孝一郎院長(56)は、電灯が消えた事務所で天を仰いだ。電話がなかなかつながらず、患者が生きているかどうかも確認できない。
 翌日までに、医師5人で手分けして、人工呼吸器を使う重症患者45人などの安否を確認した。発電機や車から電源を取り、窮地を脱していた患者もいたが、19人は緊急入院となった。
 燃料不足も深刻だった。停電中、発電機や車のシガーソケットにつないで動かす人工呼吸器は、ガソリンが切れれば止まってしまう。
 地震の2日後、往診用の車のガソリンもほぼ尽きた。
 警察などと交渉し、災害用の緊急車両指定を取って、優先的に給油を受けられるようにした。市内の多くの地域で電気が復旧した16日まで、医師の仕事は人工呼吸器を付けた患者へのガソリン配りだった。
 川島院長は教訓として、「災害直後は行政の支援が届きにくい。その時、大切なのは自助や共助。緊急時に発電機や燃料を調達できる仕組みや、地域の医療者、介護者同士のネットワーク整備を進めたい」と話す。
 未曽有の被害をもたらした東日本巨大地震。被災地の現場で患者や医療者はどう対処し、支え合っているのか。緊急リポートする。

(2011年3月23日 読売新聞)

(2)絶望、自責…心の傷深く

 津波の被害が激しかった宮城県東松島市の保健師、門脇裕美子さん(33)は、避難所巡回の帰り道、国道の真ん中でひとり立ちすくみ、号泣する中年男性に出会った。巨大地震の直撃から1週間後のことだ。
 「日にちもたったから、もう生きてないでしょう。せめて遺体だけでも……」
 男性は、おいと車に乗っていた時に津波に遭い、おいだけが流された。この日まで必死に捜し回ったが、それまで張り詰めていた心がぽっきり折れたようだった。落ち着くまで道路脇で話を聞き、いつでも保健所を訪ねるように伝えた。
 「私だけが生き残ってしまった」「不安で眠れない」「津波を思い出して苦しい」
 避難所でそんな声をよく聞くようになったのも、この頃からだ。家族や家を失ったショック、避難所生活のストレスで、心身の不調を訴える人が増えている。
 「命が助かった興奮や生活の混乱から落ち着き、現実に向き合う時。何もかも失って、今後何を支えに生きればいいのか、絶望を感じ始めている」と門脇さんは語る。
 日本赤十字社は14日、宮城県石巻市の石巻赤十字病院に「こころのケアセンター」を設置。臨床心理士と看護師が、被災者や救護にあたる職員の心のケアを始めた。同市では、門脇さんら避難所を回る保健師が、心のケアが必要だと感じた被災者を精神科医や看護師らが訪問する活動も始まった。
 家族全員が津波で流され、避難所で暮らす40歳代の女性は「私一人が生き残ってしまい、つらい」と保健師に明かし、泣き続けた。保健師や看護師がこまめに訪問することが決まった。
 ストレスに弱い精神病患者も深刻だ。薬が切れ、慣れない環境で不安感が高まり、幻聴や幻覚を訴える人も多い。手洗いなど、同じ動作を繰り返す強迫性障害の男性(32)は「避難所に入ってからトイレが近い。イライラする」と訴え、精神科医に不安を抑える薬を処方された。
 被災者の救護に当たる職員のケアも欠かせない。
 門脇さん自身、被災後4日目まで両親の安否がわからないまま働いた。自宅に一度も帰らず働き続ける職員も多い。強制的に交代で休憩を取ることを検討している。
 同病院のこころのケアセンターは、足湯やマッサージを提供する職員向けの休憩所を用意。心配な症状がある人は、臨床心理士が相談に乗る体制を取る。
 石巻市の避難所を巡回した東大病院の精神科医、桑原斉さん(36)は、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が増えるのはこれから。継続的な支援が必要だ」と訴える。

(2011年3月24日 読売新聞)

(3)抗がん剤中断 一人悩む

 揺れに襲われた時、真っ先に手に取ったのは、尿を取る管と、腹部の人工肛門(ストーマ)に着けて便をためる替えの袋、そして抗がん剤だった。「私の命綱ですから」。財布のことなど考えもしなかった。
 仙台市の佐藤千津子さん(40)は、2007年に見つかった小腸がんの治療を続けている。これまで3回の手術を受け、腹部2か所にストーマを作った。ぼうこうの一部も切ったため、自然に尿を出せなくなり、自分で管を入れて出すようになった。
 腹膜にまで散らばったがんは手術で取りきれず、抗がん剤の飲み薬で大きくなるのを抑えている。最近は、朝晩1錠ずつ2週間飲み、2週間休む治療を続けている。当初、休む期間は1週間だったが、副作用の下痢や粘膜の炎症が激しく、2週間に延ばした。
 地震が起きた日は、服用9日目。水、電気、ガスが止まり、不安が襲った。
 断水中の下痢はつらく、入浴できないと粘膜の炎症がひどくなる。そこから感染症を起こす恐れもある。
 「でも、飲むのをやめたらがんが増えるのでは」
 服用を中断するべきか、続けるべきか――。東北大学病院の主治医にたずねたかったが、電話がつながらない。やっとつながっても「被災の重症患者のみ受け入れています」という自動音声が流れるだけだった。
 一人で悩んだすえ、中断を決めた。
 「相談窓口もなく、自己判断で決めるのは不安。非常時には、がん患者はこれほど顧みられないのかと、がく然としました」と語る。
 病院と連絡が取れたのは24日。もう一つの不安だったストーマ用替え袋は、販売業者と連絡が取れ、入手できることになった。
 地域のがん診療の拠点である宮城県立がんセンターも、地震ですべてのライフラインが断絶し、通信回線がダウン。来院患者の診療はしたが、ホームページでの情報発信もできず、患者への連絡が取れなかった。検査も手術も放射線治療も、まったくできなかった。
 大沼繁幸事務局長は「治療や情報発信をしたくても、どうにもできなかった。どうすれば良かったのか今も考え続けている」と語る。
 治療法が進んで、外来に通院しながら、抗がん剤治療を受ける患者は増えている。非常時に、そうした抗がん剤治療を続ける患者はどうしたらいいのか。
 癌研有明病院化学療法科部長の畠清彦さんは「がんの種類などにより、中断が可能かどうかは変わる。手術後に補助的に抗がん剤を使っている場合は、多少中断しても問題はない。患者と主治医の緊急連絡手段や、いざと言う時に備えた服薬法指導などの取り組みを今後、進めるべきだ」と話す。

(2011年3月25日 読売新聞)

(4)休診続出、医師不足に拍車

 避難所の朝は早い。
 午前8時半、岩手県山田町の町立山田南小学校1階の教室前。60人を超す被災者らがイスに座って整然と順番を待っていた。教室内の仮設診療所で診察や薬の処方を受けるためだ。表情には疲労感が漂う。
 三陸沿岸部に位置する同町は、巨大地震と津波に加え、中心部が猛火に包まれた。仮設診療所で患者を診る開業医の近藤晃弘さん(51)も被災者の一人だ。近藤さんの医院は2階部分まで津波が押し寄せ、大事な診療器具がのみ込まれた。水が引くのを待ち、3階の手術室から添え木やはさみなど器具類を運び出した。
 夜明けを待って家族や医療スタッフと避難所の山田南小に駆け込んだ。負傷者が続々と運び込まれてきた。知り合いの開業医が走り回り、まるで野戦病院のようだった。
 「何とかしなければ――」。そのまま診療チームに加わった。整形外科が専門だが、骨折や打撲だけでなく、腹痛など内科的な手当てもした。すぐに薬が足りなくなり、避難所のスタッフが医院のがれきから痛み止めや降圧剤を掘り出してくれた。泥をきれいに洗い落として使用した。
 現在、山田南小の仮設診療所には全国から医療支援チームも入り、常時3人前後の医師が診療にあたる。避難所外からも含め、多い時には1日360人の患者があるという。
 厚生労働省の「必要医師数実態調査」(2010年6月実施)によると、岩手県は、医療機関が必要とする医師数が現状の医師数の1・4倍と、都道府県別で最も不足の度合いが大きかった。その県内でも三陸沿岸部は深刻で、人口1万8600人の山田町にある医療機関は県立山田病院と4か所の診療所のみ。そのため、30キロ・メートル離れた宮古市やさらに遠い内陸部の医療機関に通う患者も少なくない。今回の震災で、県立病院と三つの診療所が被災して休診に追い込まれており、「医療崩壊」にさらに追い打ちがかかった形だ。
 近藤さんは現在、避難所を出て、知人宅に仮住まいしながら医院の再建準備を進めている。
 「山田町は震災でこれまで以上に医師不足が深刻化する。われわれ地元の開業医は逃げるわけにはいかない。この町の医療を立て直したい」。近藤さんはこう力を込める。
 被災地に多数入った医療支援チームもやがて引き揚げるときが来る。政府与党は復興に向けて、震災支援策の策定を進めているが、崩壊に瀕した地域医療の復興についても「処方せん」が必要だ。

(2011年3月28日 読売新聞)

(5)透析受け入れ 新潟が手腕

 地震発生から4日目、14日昼、新潟大病院(新潟市)に電話が入った。
 「透析患者を新潟で受け入れてもらえないか」
 受話器から悲痛な声が響く。福島県いわき市のいわき泌尿器科病院からだった。同市は福島第一原発の南にある。震災後、同市やその周辺の医療機関は、医療器具が不足するなどし、人工透析を続けられない状態に陥っていた。
 透析は通常1~2日おきに、1回4~5時間程度行う。間隔が開くと体内に老廃物や水分がたまり、心不全などを引き起こす危険がある。被災地の患者の多くは震災後、十分な透析を受けていなかった。
 要請を受け、新潟大病院血液浄化療法部准教授の風間順一郎さんは新潟県に報告し、医局でも手分けをして県内約40か所の医療機関に受け入れを打診した。
 16日夕、いわき泌尿器科病院から連絡があった。「明日、出発する」。その時点で、受け入れ人数は把握できず、患者名簿が届いた時は日付が変わっていた。
 17日昼過ぎ、数台のバスが県庁に到着。約150人の患者が降り立ったが、名簿に名前がない患者も多数いた。患者はその日のうちに県内約10か所の施設に振り分けられ、夜には100人以上に透析を行った。
 風間さんは、「2度の震災を経験した新潟は今も被災地としての意識が強い。県内の医師らは常に顔の見える関係で、緊急時にも素早く対応できる」と話す。
 2004年の中越地震で周辺3病院から透析患者を受け入れた長岡赤十字病院(新潟県長岡市)は、20人の患者を引き受けた。
 新規の透析患者には通常、事前にエックス線検査や血液検査を行うが、後日に回した。透析終了後の目標体重など、患者から必要最低限の情報を聞き取り、病院到着から1時間で透析を開始した。
 いわき市に家族を残してきた川崎勝範さん(69)は4日ぶりに透析を受けた。ふだんは週3回、1回4時間半の透析を受けているが、震災後は3時間の透析を1回しかしていなかった。川崎さんは「新潟で透析が続けられて命がつながった。ありがたい」と安堵の表情を浮かべた。
 同病院はその後、患者のカルテなどを取り寄せ、今は受け入れ前とほぼ同じ治療を行っている。
 内科部長の山崎肇さんは「日ごろの透析方法や禁忌薬などを記した『透析カード』を作って持ち歩けば、災害時でも安心。自分たちの患者さんにも中越地震以降、透析カードを持ち歩いてもらっています」と話す。

(2011年3月29日 読売新聞)

(6)口内ケアで感染症予防

 避難所暮らしで気をつけなければならないのは、水や歯磨き粉不足から十分な歯磨きができず、口の中で細菌が繁殖してインフルエンザや肺炎、胃腸炎といった感染症を引き起こすことだ。
 岩手県山田町で避難所の一つとなった武道場は、震災直後から9日間にわたり断水した。この間、被災者には500ミリ・リットルのペットボトルが1日に1~2本配られただけだった。町内で独り暮らしをしていた女性(79)は「歯磨きに飲み水をたくさん使うなんてもったいない。少し口に含んですすぐだけでした」と語る。顔を洗うのも雪を解かして湿らせたタオルで拭くだけだった。
 昭和大歯学部教授の高橋浩二さんは医療支援チームの一員として震災9日目から同町内に入り、6か所の避難所で「口内ケア」の大切さを訴えた。
 「自由に水が飲めず、歯磨きもやっていないと、口の中で細菌が繁殖しやすい。避難所生活では、栄養状態の悪化や睡眠不足、ストレスも重なり、感染症を引き起こします」
 高齢者にとって怖いのが「誤嚥性肺炎」だ。
 細菌の多い唾液や食べ物などが誤って気管に入って起こる。町立山田南小学校の避難所では震災から7日目、歯磨きを十分せず、誤嚥性肺炎をおこして病院に運び込まれた高齢者の男性がいた。

 水を節約した歯磨きのコツは、歯ブラシを歯の上で小刻みに動かすこと。水はブラシをぬらす程度でいい。口の中を刺激することで唾液が分泌される。唾液には一定の殺菌効果がある。磨き終わった後の唾液は必ずはき出す。

 入れ歯の手入れにも注意が必要だ。町立山田南小学校に避難している女性(70)は「周囲の目が気になり、入れ歯の汚れはティッシュで拭き取るだけにしていた」と打ち明ける。避難所ではプライベート空間が少ないことから、人前で入れ歯を外すことをためらい、装着したままという人も少なくない。
 就寝前には入れ歯を必ず外し、歯ブラシを細かく動かして磨く。入れ歯に熱湯を注ぐ人もいるが、変形して装着できなくなる恐れがあるのでやめる。
 誤嚥防止のために、口の周りの筋肉を鍛える方法もある。「あ」「い」「う」と大きく口を開けて1日10回以上声を出したり、舌を前や左右に最低10秒突き出したりする。
 高橋さんは「少しの工夫で口の中のケアは可能です。体調を保ちながら被災を乗り越えてほしい」と話す。

(2011年3月30日 読売新聞)

(7)保健師と派遣団フル活動

 「地震発生からこれまでの日々のことは、ずっと忘れられないと思う」
 大津波で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町。高齢者の健康・介護を担当する地域包括支援センターの保健師、高橋晶子さん(48)が振り返る。
 3月11日の地震発生時は職場にいた。大きな揺れがおさまった後、約400メートル離れた高台の志津川小学校に同僚らと逃れた。町役場、病院などすべてが津波にのみ込まれるのが見えた。家族の無事は確認できたが、自宅は全壊。避難所の志津川小体育館は800人の住民でいっぱいになった。
 まず、寒さで震える高齢者をストーブの周りに誘導することから非常時における保健師の仕事が始まった。
 無事だった地元の開業医、看護師らと臨時救護所を作った。ストレスで上の血圧が200を超えた患者のために、住民に呼びかけて手持ちの降圧剤を分けてもらった。ストーブの熱に当たりすぎて体調を崩す高齢者も相次いだ。そのたびに担架で外に運び、冷気の中で手当てした。歩き回る認知症の女性、真っ暗な夜中にトイレの付き添いを求める高齢者を交代で介助した。「出来ることを出来るだけやろう」。迷いはなかった。
 震災から5日目の15日、県外から医療支援チームが医薬品を携えて町に初めて入った。「医薬品が来て何よりもうれしかった」と話す。
 高橋さんは全国から駆けつける支援チームの案内役として、トラックの荷台に乗り、巡回診療に同行した。
 宮城県の要請で全国の自治体から派遣された保健師らのチームが20日、南三陸町の保健師らを助けにきた。同じ保健師同士、自然な気遣いがありがたかった。やがて「高橋さんに少しは休んでもらおう」が合言葉に。「肩から重荷を下ろした気持ちになった」
 阪神大震災の経験がある兵庫県チームの提案で、仮設テント内に町内の地図を貼り、訪問した世帯が一目で分かるように色分けした。25日からは熊本、高知などの10チーム、三十数人が手分けして全戸訪問を始めた。聞き取り調査で得た住民の健康情報は、新しい町の出発点になる。
 「全国の派遣チームには本当に助けられている。町の高齢者を支援していくには、自分たちが元気でいないと」と高橋さんは話す。
 18歳の長女は4月から仙台市の看護学校に進む。家計を心配し、進学をためらう長女に「家族や周囲が応援するから大丈夫」と背中を押した。
 「南三陸町をなんとかしなくちゃ」。保健師として決意を新たにしている。

(2011年3月31日 読売新聞)

(8)地元医師会 夜に巡回診療

 「ちゃんとご飯を食べていますか」「体調はどうですか」
 大津波が沿岸部を襲った岩手県宮古市。避難所となった市立宮古小学校で、開業医の伊東邦郎さん(61)が、ストーブに身を寄せ合う被災者たちに優しく声をかけた。
 宮古市では、360人以上が亡くなった。人口(約5万9000人)の1割弱にあたる4815人が避難所暮らしをしている。
 約30人の医師が市内で開業しているが、そのうち3分の1が被災し、休診や診療態勢の縮小を余儀なくされた。
 避難所では、不自由な生活が長引いて体調を崩す人、高血圧など慢性病を抱えるお年寄りが多い。震災後、県外から医療支援チームが多数入っているが、「できれば、顔見知りの医師に診てもらいたい」との要望が少なくないという。
 地元の宮古医師会が立ち上がった。夜間に避難所を巡回診療する活動を始めたのだ。医師2、3人が一組となり、午後6時過ぎから2時間かけて避難所を回る。被災を免れた開業医が中心で、昼間に自分のクリニックで患者を診た後、夜も巡回チームに加わる。
 巡回初日の22日は伊東さんら3人の医師が避難所の同小学校を訪問、被災者が生活する教室を回った。
 「私は産科医ですが、被災地の医療現場では専門外だなんて言ってはいられません」
 のどに痛みを訴える高齢の男性の口の中をのぞくと、のどが真っ赤だった。体を温める効果がある漢方の風邪薬を手渡した。
 別の教室では、被災後に初めて入浴できたことや、夜眠れない悩みなど、せきを切ったように打ち明ける男性の話に耳を傾けた。
 昨年末にお産を手がけた若い母親にも再会した。「こんなところでお会いするとは。お子さんも大丈夫ですか」と尋ねると、男児を抱く母親は唇をかみ、涙ぐんだ。津波にのまれそうになり、命からがら避難所にたどり着いたという。
 同校の体育館に避難した男性(77)は、経営する飲食店や自宅が被災した。昼間は自宅のがれきの整理に追われ、この日は持病の高血圧の薬を服用していなかった。血圧を測ると上の血圧が199と非常に高く、だるさや、腰の痛みも訴えた。聞くと、医療支援のチームへの受診をためらっていたという。「知らない人たちだし、言いにくくてね」
 巡回診療チームの一人、内科医の熊坂義裕さんは「地元の患者をよく知っているのは地域の開業医。ここで何とか踏ん張りたい」と話す。
 被災地では地域医療を守るため、地元の開業医たちも懸命に闘っている。

(2011年4月1日 読売新聞)

(9)安心できる育児の場を

 テレビから突然、緊急地震速報の警報音が鳴り響いた。3月11日、仙台市の阿蘇陽子さん(31)は、そばで寝ていた産後15日の次男、琉心君を抱きかかえ、自宅の外に飛び出した。直後に激しい揺れが襲う。思わず琉心君を強く抱きしめた。
 揺れがおさまると、自宅に戻っておむつと粉ミルクを急いで取り出し、車で近くの中学校に避難した。夫と長男、長女とはその日の夜までに再会できた。
 余震が続く中、2日間を車の中で過ごした。琉心君は、地震の恐怖からか泣きやまない。粉ミルクを与えていたが、水事情が悪く、母乳しかあげられなかった。阿蘇さんは「子育てしづらい状況が長引くと子どもに悪影響が出るのではないか」と不安を募らせる。
 被災地では乳幼児を抱える家族への手厚い支援が求められる。
 「震災翌日に出産した母子がいる。家が津波で流され、退院後の行き場がない」。NPO法人「いわて子育てネット」理事長の村井軍一さんは、岩手県立宮古病院(同県宮古市)の産婦人科医から相談を受けた。
 村井さんは県とも話し、17日から盛岡市内の宿泊施設で乳幼児がいる被災者家族を受け入れた。これまでに宮古市や大槌町などから5組の家族が入所した。
 村井さんは「避難所は感染症にかかりやすく、赤ちゃんにとって好ましい環境ではない。母親が安心して子育てできる場所の確保が急がれる」と指摘する。
 宿泊施設には同ネットがそろえた粉ミルクやおむつ、乳幼児の服がそろう。原則として1週間滞在でき、その後も自宅に戻れない場合は、市内のアパートに移る。生活費は同法人が負担する。
 被災地での不自由な生活で母親のストレスが増えると、母乳の出方も悪くなる。日本助産師会専務理事の岡本喜代子さんは「母乳が出なくなっても赤ちゃんにおっぱいを吸わせることが大事。母子ともに精神が安定する。落ち着けば母乳も出るようになる」と助言する。
 母親の体が冷えないようにすることも重要だ。免疫力が落ちたり下痢をしやすくなったりし、母乳の出方にも影響するからだ。
 同会は全国の宿泊可能な助産所で出産1年以内の母子を最大1か月間、受け入れることにした。岡本さんは「育児環境を整えるため、一時的に被災地を離れるのも一つの方法だ」と話す。

【産後の母子の受け入れ窓口】
 ■NPO法人いわて子育てネット ((電)019・652・8636)
 ■日本助産師会 ((電)03・3866・3062)

(2011年4月4日 読売新聞)

(10)関節リウマチ 心労で悪化

 宮城県石巻市の主婦、渥美美代子さん(66)は震災の発生から9日間を市内2か所の避難所で過ごした。
 震災直後の避難所は、食べ物が不足し、持参したアメ玉などで飢えをしのいだ。暖房もなく、体が芯から冷えた。不安で夜も眠れない。心労がたたったのか、持病の関節リウマチが悪化し、左手首が痛み出した。
 関節リウマチは、細菌やウイルスから体を守る免疫機能が異常をきたして自分の細胞を攻撃し、関節に炎症が起きる。進行すると関節が壊れて変形する。
 渥美さんは3年前から症状が進んだ。痛みや腫れは、手や足など、ほぼ全身の関節に広がっていた。
 昨年2月、知人に紹介された東京医大医学総合研究所所長の西岡久寿樹さんを受診。西岡さんが診療する霞が関アーバンクリニック(東京・霞が関)に月2回通い、免疫作用を抑える生物学的製剤を注射し、関節の腫れや炎症を抑えるステロイドなどを服用していた。
 今は、避難所から同県東松島市の実家に移ったが、震災後、東京への通院はできないままだ。東北新幹線が一部しか開通しておらず、車も津波で流されたからだ。渥美さんは「痛みが強くなっても耐えるしかない」と不安を隠せない。
 西岡さんは「治療を中断したら2~3か月で症状が悪化することが多い。精神的な負担も痛みを強くする」と懸念する。渥美さんには地元で必要な薬剤をなんとか取り寄せるよう助言した。
 関節リウマチの患者は全国で約70万人。渥美さんのように治療の中断に追い込まれた患者は、被災者の中にも多数いると見られる。
 1995年の阪神大震災の時に関節リウマチ患者の治療にあたった松原メイフラワー病院(兵庫県加東市)院長の松原司さんは、「被災地では薬が手元にそろっていない患者が多かった」と振り返る。松原さんは「避難所で役場の担当者に頼むなどしてステロイドだけは手に入れたい」と指摘。服用を突然やめると、痛みや炎症が再び強まるだけでなく、低血圧や低血糖などの症状が起こる懸念がある。生物学的製剤や免疫抑制剤を使っている人は免疫力が低下しており、感染症にかかりやすい。松原さんは「被災地では自分で判断せず主治医に相談して薬を使ってほしい」と話す。
 日本リウマチ財団は、東日本大震災を受け、治療相談を受け付ける全国の医療機関をホームページで公開している。「主治医と連絡がとれない人などは活用してほしい」としている。

 【日本リウマチ財団のホームページ】http://www.rheuma-net.or.jp/rheuma/index.html

(2011年4月5日 読売新聞)

(11)急がれる衛生状態改善

 被災地では全国から駆けつけた医療支援チームが、住民の診療、健康管理に当たっている。現地で多数の支援チームの活動をどう調整しているのか。直面する課題は何か。石巻圏(石巻市、東松島市、女川町)を担当する宮城県災害医療コーディネーター、石井正さんに聞いた。

 ――災害医療コーディネーターとは。

 宮城県が昨年度に設けた制度で、医療支援チームの受け入れなど、大規模災害時に適切な医療体制を構築できるよう調整するのが仕事です。勤務先の石巻赤十字病院は災害拠点病院に指定されており、震災前から行政、消防、自衛隊などと連携する協議会を作っていました。私は通常、外科医として勤務していますが、今は調整業務に専念しています。

 ――現在、石巻圏で活動する医療支援チームの数は。

 40~50チーム。1チーム7~8人で構成しており、計300~400人の医師、看護師らが支援に入っています。

 ――避難所の状況は。

 圏内には300を超える避難所があります。行政も把握していない小さな避難所もあり、3月28日現在の集計では、入所者数は4万人を超えています。災害発生から時間がたてば、患者数は減るものですが、いまだに1日200人程度の急患診療が続いています。肺炎など感染症の症状を訴える患者が多い。避難所を含めた地域の衛生環境が劣悪だからだと思います。

 ――長期戦になりそうだが、支援チームの体制は。

 支援チームがばらばらに活動するのでは効率が悪い。そのため、地元の医師会や歯科医師会、東北大、行政、自衛隊医療班などと話し合い、すべての支援チームが災害医療コーディネーターの下で一元的に活動する「石巻圏合同救護チーム」を3月20日に発足させました。圏内を14地域に分け、1地域を、固定した3~4チームが巡回診療する体制にしています。

 ――対策を立てる上で大切な状況把握はどうしているか。

 避難所で活動するたびにチームから報告が上がるようにしています。発熱、嘔吐・下痢、インフルエンザなどの患者数のほか、歯科、小児科、産婦人科の診療の必要があるのかどうか。食事や水、トイレの衛生状態など多岐にわたります。それを毎日集計して一覧表にまとめ、対策を立てています。物資が足りない時は支援チームが届けています。石巻市役所も被災しており、行政機能を一部肩代わりしている形です。

 ――喫緊の課題は何か。

 衛生状態の改善は待ったなしです。感染症の流行が心配です。暖かくなってくると、細菌やウイルスが増殖し、状況はさらに悪化すると見られるからです。上下水道の復旧なども不可欠ですが、時間がかかりそう。住民の一時避難などの検討も必要ではないかと思います。国には連日、対策を急ぐように訴えています。引き続き、全国的な支援をお願いしたい。

(2011年4月6日 読売新聞)

(12)地域ごとに異なる課題

 被災地には、国内外から多くの医師が支援に駆けつけている。現地に診療に入った3人の医師に状況や課題などを聞いた。
 東京医大病院総合診療科の大滝純司さん(52)は、3月25~29日、福島県相馬市の病院と避難所で診察した。風邪やインフルエンザにかかる人が相次いでおり、こじらせて肺炎を起こしかけた患者も3、4人を数えた。雑魚寝状態の避難所生活が続き、不眠を訴える人も目立った。
 同市には近隣市町村から多数の住民が流入してきている。福島第一原発の事故で避難を余儀なくされた人たちだ。中には入院中だった人もいたが、近くに十分な入院施設がないため、避難所の床で横になっているケースもあった。
 大滝さんは「避難者の環境改善が必要だ。原発事故がいつ収拾するか、そして、いつ家に戻れるのかといった先の見えない不安が避難所に満ちていた。他の被災地とは違ったつらさがあると思った」と語った。
 24~29日、岩手県大船渡市に入った米国在住の医師、小松義宏さん(31)は、被災地に医師らを派遣するNPO法人「TMAT」の支援チームに加わった。避難所は落ちついており、震災直後のように診察を待つため行列ができることもなかった。
 同チームは自宅などにいる被災者を巡回診療した。
 津波を免れた高台の家から片道30分~1時間かけ、歩いて薬を取りに来る高齢者がいた。その一方で、情報が伝わらず、避難所が設置されていることさえ知らない人もいた。
 避難所では、診察以外にも、こまめに被災者に声をかけたという。「昔、心臓を手術したのよ」と話すお年寄りには、「ちょっと胸の音聴こうか」と聴診器を当てた。すると「私のも聴いて」と次々に人が集まった。小松さんは「病気でなくても医者がいる安心感は大事だと思う」と振り返る。
 「日本の災害医療は大きく変わった」と話すのは、被災地での診療経験が豊富な順天堂大練馬病院の救急医、杉田学さん(43)だ。「阪神大震災の時は、支援する側もどうしていいかわからず、単独で被災地に赴く医師もいた」。今回は、即応体制が整っており、発生3日目までに十分な装備をした約120の医療支援チームが現地入りした。
 杉田さんは23~26日、宮城県岩沼市の避難所で診療した。大都市の神戸では、被災者同士のコミュニケーションは少なく見えたが、同市では「地域の絆の強さが生きていた」と指摘する。避難所でも地区ごとに結束し、自然とリーダーも決まっていて、支援物資の配分もスムーズだった。
 これから、復興までの道のりは長い。杉田さんは「今後は地域の医療システムをいかに正常化させていくかだ。被災地の病院は今、日常の診療で手いっぱいだが、手術などもできる通常の状態に早く戻さなければならない。そのための支援策が必要だ」と話す。

(2011年4月7日 読売新聞)

(13)前線の病院を後方支援

 東日本を襲った未曽有の大震災。医療面で東北地方の中核的拠点である東北大病院はどう動いたのか。同大病院長の里見進さんに聞いた。

 ――震災初期の対応はどうしたのか

 最初は情報がなく、病院外の状態が全然分かりませんでした。東北大病院は手術室、検査室、外来棟などが地震による揺れでめちゃくちゃになっていました。すぐ非常電源に切り替え、手術は切りがいいところで止めて無事に終わらせました。幸い、入院病棟は新しく、患者、職員は全員無事でした。
 まずは足場固めが大切だとして、使える設備を生かして、簡単な検査と緊急手術が出来るように体制を整えました。

 ――医薬品、食料などの確保は

 大規模災害時は「兵糧攻め」が一番こたえてくると思っていました。そのため、発生直後に災害時有線電話で「道路事情は分からないが、届けてほしい」と他の国立大などに要請しました。通常の物流が寸断するなか、東北大病院には翌日から医薬品、医療材料、食料などが次々とトラックで届きました。おかげで、病院機能が停止することはありませんでした。

 ――当初は携帯電話がほとんど通じなかったが、県内の病院に対する支援は迅速に行えたか

 発生後3~4日して、気仙沼市や石巻市など被害が大きい沿岸部の病院に患者が殺到していることが分かりました。退院が可能な患者は説得して帰っていただき、空床を作り、最前線の病院からの入院依頼は全部受ける体制を作りました。
 県内の主要な病院には、災害時に備え、通話可能な無線機が配備されており、患者の搬送連絡などに支障はありませんでした。ヘリ、救急車、自衛隊の輸送車などで搬送し、多い日で100人以上の患者を受け入れました。
 自分たちには県内の医師の「顔」が見えます。どこの病院が孤立しているとか、薬が足りないとか、様々な情報が次々と入ってきました。医師を派遣し、必要な物資を輸送しました。マイクロバス2台を借り切ったほか、大学の他学部の公用車も運転手付きで提供してもらい、1日に数十人の医師を応援に出すことができました。今も同じくらいの人数の医師が診療に出ています。

 ――いつまでこうした支援を続けるのか

 東北大病院では通常の外来診療、手術は再開しています。前線の病院からの患者の受け入れ、医師の派遣は要請がある限り、続けます。全国の医療チームが地域を分担して長期的に被災地の医療を支える体制が出来ました。東北大からは、そのすき間を埋める形で、被災地で手薄な眼科、耳鼻科、皮膚科、歯科などの診療を担うチームを巡回させています。とにかく前線の病院を後方支援する。みな士気は高く、十分支えられると思っています。

(2011年4月8日 読売新聞)

■ 大震災 福島から(2011年4月:読売新聞)

(1)介助者いない時に津波

 東日本大震災の津波被害で、一人の難病患者が命を落とした。福島県いわき市の佐藤真亮さん、享年35歳。全身の筋肉が萎縮する筋ジストロフィーのため、人工呼吸器と車いすが必要な生活だったが、ヘルパーの介助を受け、自立した生活をしようと奮闘。高齢の祖母と自宅で暮らしていた。
 障害者を支援するNPO法人「いわき自立生活センター」で週3日、わずかに動く指先を使い、パソコン入力作業を熱心にこなした。「典型的な東北人」と評される寡黙なタイプだが、ひょうひょうとしたたたずまいで、周りの人を落ち着いた気分にさせてくれた。
 3月11日。いつものように作業を終え、ヘルパーに送られて午後2時過ぎに帰宅。海沿いの国道に面した自宅で横になった。次にヘルパーが来るまで、1時間ほどの一人の時間。ところが、午後2時46分の大地震の後、津波が襲った。
 近くに住む親族が駆けつけ、祖母ともども連れ出そうとしたが、一緒に流された。同センターのメンバーが、九死に一生を得たこの親族から聞いた話では、助けようとした時、佐藤さんは「もう、あきらめましょう」とつぶやいたという。それが最期の言葉になった。
 これを知ったセンターの仲間は、涙にくれながらも「真亮くんらしいね」とうなずき合った。重い病気と闘ってきただけに、20代のころから、どこか達観した、悟ったような雰囲気を持っていたからだ。
 生活に全面的な介助が必要な佐藤さんにとって、1週間(168時間)のうちヘルパーのいない時間は、合わせてわずか4時間半。理事長の長谷川秀雄さん(56)は「不運としか言いようがない。少し時間がずれていれば、助けられたかもしれないのに」と悔やむ。
 原発事故の影響で、同センターの利用者ら約30人は東京に避難。被災直後の断水、原発事故の影響による物資やガソリンの不足で苦労した。政府がいわき市全域を屋内退避の対象外としたことを受け、4月17日に無事戻った。
 長谷川さんたちは、今回の被災体験を教訓に、集団避難の行動計画を作ることにした。地震と原発事故が重なった時、最重度の障害者のために必要な備えを検証し直し、明文化する。震災2か月後の5月11日、この計画に基づいた避難訓練を行う予定だ。
 病気や障害を抱えた人たちの被災の現場を、福島県から報告する。

(2011年4月27日 読売新聞)

(2)避難所生活で病状悪化

 「できるなら福島県に帰りたい。でも、この体では過酷な避難生活には耐えられない」
 福島第一原発の事故で、避難指示が出た20キロ・メートル圏内にある南相馬市小高区の松本寿美子さん(52)は、脳性まひのため両手両足が不自由で、車いすで生活している。今は新潟県新発田市の民家に身を寄せる。
 避難指示が出た後、実弟ら家族とともに自宅を出た。南相馬市内の避難所の小学校で寝起きするのは、冷たい床にマットと毛布を敷いただけの寒い体育館。持病の股関節や腰の痛みが日に日に増していった。
 障害者用トイレはあったが、一人で使えるよう工夫された自宅のものとは違い、使う時は手助けが必要だった。周囲に遠慮し、トイレの回数を減らそうと、足のむくみを取るため服用してきた利尿剤をやめた。すると、足首は周囲が40センチを超えるほどむくんだ。後でわかったことだが、股関節は外れた状態だった。
 友人を通じて知った福島県田村市のNPO法人「ケアステーションゆうとぴあ」の助けで、3月25日、新潟県へ。自宅が避難区域となったヘルパー一家との生活にほっとしているが、先が見えない不安はつきまとう。
 「健康状態の良くない人には、体育館での生活は大変過ぎる。家に帰れれば何の問題もないのに」と松本さん。避難した体育館には、ほかに5、6人の障害者がいたという。
 20~30キロ・メートル圏に当たる南相馬市原町区の山田せつ子さん(68)は、脳梗塞で右半身まひがある姉(73)を介護している。一時は屋内退避区域とされ自主避難が求められたが、家を出る気にはなれなかった。「姉を動かしたり避難所暮らしをさせたりしたら、かえって悪くなって死んでしまう」と心配する。
 原発事故で避難を求められた住民の中でも、体の弱った高齢者、病気や障害を抱える人たちは、健康な市民以上の困難に直面している。体調を心配して避難できずにいたり、避難生活で症状が悪化したり。事態が長期化するほど深刻だ。
 県内の避難所を回り、こうした人たちを支援している民間団体「被災地障がい者支援センターふくしま」には、30キロ・メートル圏内の自宅にいる人から「車いすでも暮らせる避難所はどこか教えてほしい」といった相談が寄せられる。しかし、県も個々の避難所がどのような設備を備えているかは把握できていないのが実情だ。
 代表の白石清春さんは「無理な環境での避難生活は命にかかわる。体調の良くない人や体が不自由な人に配慮した避難所を整備してほしい」と訴えている。

(2011年4月28日 読売新聞)

(3)避難で孤立 支援に遅れ

 福島第一原発から20キロ・メートル圏内の福島県南相馬市小高区にあった精神科病院。この病院に通いながら、精神障害者のグループホームで暮らしていた50代の女性は、原発事故による避難指示で病院が閉鎖され、その後の混乱で行方が分からなくなってしまった。
 国は、原発から30キロ・メートル圏内の病院はすべて、入院患者を圏外に避難させるよう指示。病院側は入院患者の移送に手いっぱいで、自宅などから避難所に移った外来患者は、必要な治療が受けられず、支援の手からこぼれがちになっていた。
 こうした患者たちをボランティアで支援しているのが、同病院の臨床心理士だった須藤康宏さん(35)。女性は幸い、新潟県内の体育館にいることがわかり、須藤さんが迎えに行った。
 「遠くへ連れて行かれて不安だった」と話すこの女性は、南相馬市に隣接する相馬市で精神障害者らを支援しているNPO法人「ひまわりの家」に保護された。最初は不安や緊張からか険しい表情で、ほとんど言葉が出なかったが、徐々に笑顔を見せるようになった。
 同法人は市内の80人余りを支援。この女性を含め、避難で孤立した計6人を新たに受け入れた。
 やはり避難指示が出た浪江町の女性(23)もその一人。
 以前は、医師のカウンセリングを受けながら、地元の支援センターで働いていた。しかし、避難所を転々とするうちに家族とはぐれ、途方に暮れていたところを支援者に見つけられた。
 女性は「1人になって、家に帰りたいけど帰れないし、どうしていいか分からなかった」と心細かった避難生活を振り返った。
 さらに心配されているのは、自宅で孤立している人がいるということだ。
 被災した障害者の支援を目的に設立されたボランティア団体「被災地障がい者支援センターふくしま」が県内の避難所198か所を訪問調査したところ、120人ほどの障害者を確認したが、障害の程度は軽度の人がほとんどだったという。メンバーの岡部聡さんは「重度の人ほど避難せず、自宅にいる可能性が高い」と指摘する。
 臨床心理士の須藤さんは「精神疾患の患者は環境の変化が苦手な人が多く、自宅にとじこもっている人もいるはず。その人たちにどう支援の手を差し伸べられるかが、今後の課題だと思う」と話している。(高梨ゆき子)

(2011年4月30日 読売新聞)

■ 医療従事者用

□ 「医療従事者のための災害医療情報」(小児科医作成)

□ 「災害時に乳幼児を持つ家族を支えるために」(日本小児科学会)

□ 「障害のある子どもへの災害時対応の手引き」(日本小児科学会)

□ 「子どもの心のケア(PTSD対策)」(日本小児科医会)

□ 「妊産婦・乳幼児を守る災害対策ガイドライン」(東京都福祉保健局)

□ 「内科医のための災害医療活動」(日本内科学会)

□ 「インスリン入手のための相談連絡先について」(日本糖尿病学会)

□ 「日本透析医会災害情報ネットワーク」(日本透析医会)

□ 「広域災害救急医療情報システム

□ 「危機管理情報(医療従事者向け専門情報)」(日本予防医学リスクマネージメント学会)

□ 「災害時の感染症対策」(編集責任:大曲貴夫氏)

□ 「東北地方太平洋沖地震に関する情報」(日本医師会)

□ 「東日本大震災に関するお知らせ」(日本未熟児新生児学会)

■ 放射線被ばく関係

■ 救援活動・ボランティア関係

日本赤十字社

 救援活動やボランティア活動の関連情報など

□ 「ジェムズネット東京

 医療支援を含む、災害時のボランティアの心得

原子力発電所について